第47回社会思想史学会フーリエ・セクションに行った

2022年10月16日(日)開催の社会思想史学会に赴き、フーリエ・セクションに参加。会場は専修大学生田キャンパス。地理的には神奈川県で、生田緑地の緑に囲まれたロケーション(すでに紅葉が始まっていた)。

大会案内:http://shst.jp/home/conference/

大会特設ページ(パスワード保護中):http://shst.jp/2022/09/02/202247/

 

フーリエ・セクション「フーリエ研究の現在」では、まず福島知己氏と藤田尚志氏より、それぞれ「「シャルル・フーリエ『産業の新世界』の構成と位置づけ」と「フーリエ的思考と結婚の脱構築ベルクソンドゥルーズを参照しつつ」と題された報告があり、それに対して討論者の金山準氏(プルードン研究)と清水雄大氏(フーコーを中心とするフランス近現代哲学研究)の立場からコメントがなされた。

 

私は「フーリエの思想と建築・都市計画」という関心から参加したのだが、知識を得るとともに思考もおおいに触発される、とても良い機会だった。いくつか自分なりの関心に引っかかったポイントを。

会場との質疑応答では、経済学研究者の立場から、「フーリエの発想(『産業の新世界』で具体化されるファランステール計画など)は、周囲の空間を変えれば行動が変わるというものであり、これは行動経済学の考え方ではないか」との指摘があった。この行動経済学の背景には、背景に「行動主義」の考え方があり、これはアーレントが「人間を動物に還元するもの」として痛烈に批判したものである。しかし、フーリエの場合は、そのような「設計主義」に「偶発性(きまぐれ)」を導入するという特性があるのではないか? つまり、「ナッジ」の考え方と似て非なるものではないか、というのである。

フーリエの「新しい社会秩序は新しい建築を必要とする」という発想は、まさに環境管理型権力的であり、18世紀終わりのパノプティコン構想とも共通するのではないか、と私も考えていたところである。確かにそのような側面もあるが、そこに「きまぐれ(偶発性)」という要素が取り入れられているという指摘には、はっと気づかされるものがあった。

この点については、「フーリエはある種の「改造主義」であり、「気まぐれ」も設計主義に含みうる(それがフーリエの危険性でもある)、権力との関係も両面性をもつ」という指摘もなされた(清水氏)。フーコーは『監獄の誕生』で、フーリエそのものには言及していないが、ベンサムパノプティコンを「管理されたファランステール」と称しているという(福島)。その後に展開された議論では、フーリエの「きまぐれ」には、権力への抵抗の契機も見出しうること、設計(設定)されたオルジアの場が、性的欲望への気付きをもたらすこと(フーリエのいう「セリー」も一種の発見装置であること)、ナッジなどドゥルーズのいう環境管理型権力については、そのなかに組み込まれている人がそのことを「知っている/知らされているか」が重要であること、フーリエにとって重要だったのは、広い社会領野のなかに情念を解き放つことであり、それが新しい情念の分岐を生み出す、つまり広い社会のなかで自分が自分を見つけ出すことに繋がることなどが指摘された。フーリエによれば、各人の性的嗜癖manieが特殊であればあるほど、遠くへ旅行しなければならず、そこで合致する嗜癖の人間に出会い、新しい嗜癖を発見することとなる。つまり、文明-調和のなかを常時移行することが求められているという(Cf. ファランステールにおける「隊商宿」)。もっとも福島氏によれば、フーリエが提示したのは「規範」ではなく「記述」との由。

藤田氏の報告で焦点の当てられた結婚と性愛という契機、また質疑応答の場で言及のあった旅行というテーマも、私自身のフーリエに対する関心にとって、重要な鍵概念であることを再確認する。(どこかの地方自治体が、最近「AI婚活」なるものを打ち出したというニュースを見たときには、「最新テクノロジーによるフーリエみたいだな」と思ったのだが、AIはきまぐれ(偶発性)を排除するという点では似て非なるものなのだろう。)

以下、自分用メモ(学会で出された発言ではなく、私自身の着想)。フーリエは、自身で言及する建築の趣味はむしろ前時代的だが、「環境管理型権力」という点ではパノプティコン(さらにはルドゥーの「アルケ・スナンの王立製塩所やサドによる放蕩の館計画など)とも共通する、「建築物の構造によって人間の行動や内面を変える」「新しい建築物は新しい社会秩序をもたらす」という発想の持ち主であった。
このギャップはどこに出来するのか?
Cf. フーコーパノプティコンを「管理されたファランステール」と称す」

また、フーリエファランジュ(理想的共同体)にとっても「旅をすること」は重要である。これは人間の交流と循環をもたらすものである。
Cf. 18世紀における旅、あるいはサドにおける旅などとの比較

 

これはずいぶんと大雑把な「日常へのあてはめ」になってしまうが、最近の大学に要請されている「学習成果の可視化」(ラーニング・ポートフォリオや学習カルテによる学習履歴のデータ管理)や、コロナ禍でいっきに普及したLMS(教育管理システム)などのテクノロジーで、学生の授業資料へのアクセス履歴から、講義動画視聴時間まで監視とコントロールができてしまうこと(講義動画の倍速視聴や同時再生に対し制裁を行なった大学もあったとか)なども、要は(環境)管理型権力の一種なのではないか。それを「望ましい規範」だとか「文科省の要請だから」などといって、無批判に、あるいは目をキラキラさせて唯唯諾諾と従うことの危険性も、改めて認識させられた。勤務先でもいちどドゥルーズの管理社会論で読書会をすべきなのではないか、ジェリー・ミラーの『測りすぎ』とともに。そもそも「権力には批判的であることが必要(check & balanceを機能させるためにも)」という考え方自体が、共有されていないのだろうなと思う。フーリエには全然関係ない話になった。

 

学会会場に出店していた晃洋書房で、『ユートピアのアクチュアリティ』と『アート・ライフ・社会学:エンパワーするアートベース・リサーチ』の2冊を購入。後者で紹介されているart-based research(ABR)の考え方は、今秋から開始となった大学コンソーシアムの共同研究にも参考になりそう。ABRもSEA(socially engaged art=社会参画型芸術)などと並んで、すでにさまざまな批判も出ているだろうから、そういうメタレベルからの批判も織り込みつつ、実践という形で探究できれば。

 

午後は東京に戻り、根津美術館を訪問。11月に課外授業の美術館ツアーで訪れるので、その下見も兼ねて。企画展では蒔絵が取り上げられていた。一言で「蒔絵」といっても多様な技法があり、地の黒とのコントラストも含めて多彩な表現が可能であることを目の当たりにする。庭園にはさまざまな草木が植えられ、歩くだけで精神が浄化される。苔むした石仏や池に浮かぶ庵つきの質素な船(水に侵食されて荒屋の趣がある)、点在する庵(茶室)の簡素さ(まさに『小さな家の思想』)を堪能する。ここ数年なぜか心を惹かれているガンダーラ美術についての解説本と、白檀と龍脳を調合した美術館オリジナルのお香を買って帰宅。

 

   

ゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)

 

昨日は当日券完売済で入場できず、関連書籍だけ買ってとぼとぼと引き上げたリヒター展、やはり大きさやマティエールなどを確かめるためにも実物を見ておきたいと思い、再び竹橋に。結論から言うと、やはり実際の展示を見られて本当によかった。見逃した人は、わざわざ巡回先の豊田市美術館に赴くだけの価値はあると思う。

実はリヒターについては「現代のスターアーティスト」程度の認識で、「アトラス」シリーズについてB. ブクローが論文を書いていたけど当時の自分には今ひとつ消化できなかったことと、SONIC YOUTHのアルバムジャケットの絵の人というくらいしか予備知識がなかったのだが、会期終了間際に「ビルケナウ」という連作が出展されていることを知り、これは俄然行かなくてはと思い立ったのだった。

展示室には敢えて展示順序は設けられておらず、個々人の関心に沿って観覧する方式。まずは実物を確かめたかった「ビルケナウ」連作へ。ディディ=ユベルマンの著作『イメージ、それでもなお』に触発を受け、ビルケナウ絶滅収容所で秘密裏に撮影された4枚の写真を元にした「フォト・ペインティング」の上から、油彩絵の具の層をスクィージで塗りつつ削る手法で制作されたという。絵の具の層の下に描かれている絶滅収容所の光景が、表面から少しでも視認できるのかどうか知りたかったのだが、完全に塗りつぶされていると分かった。スクィージで引っ掻かれた表層は、ビルケナウ収容所に生えている(地名の語源でもある)白樺の樹皮を連想させた。実際リヒターには、ビルケナウ・シリーズとは独立したもののようだが、《グレイ(樹皮)》と言うタイトルの、やはりマティエールが樹皮の捲れ剥げかけた白樺を思わせる作品もある。

カンヴァスに油彩で描かれた「ビルケナウ」4連作の実物大の写真複製も、向かい合わせに(鏡像のように)置かれている。ビルケナウに顕著な表面のマティエールは、当然ながら消えている(図録やウェブ、あるいは会場で撮影した写真を見るのと変わらない)。この連作に限らず、リヒターはフィジカルで物質的な作品とその複製との関係、メディウム間を越境しつつ複製するというプロセスで顕わになるものに、意識的だということが分かった。リヒターにおいては、複製はcopyというよりduplicate(二つにする)という語の方がはまるように思う。

表層の凹凸や絵の具の物質性は豊かなのだが、作家個人の身体痕跡だとか、アブジェクシオンとかいった生々しさは不思議と希薄で、その点が他の「マティエール系」絵画作品とはだいぶ異なるように思った。スクィージの使用による、平された表面と規則正しい削り跡のせいもあるだろうか。

すでに物心のつく年齢で第二次大戦を経験した世代のドイツ人、という立場も含めて、リヒターは芸術家としての自己の責任と倫理のようなもの、何をどう引き受け表現するのかということに、極めて意識的だと思った。イメージへと加える操作(複製する、上から絵の具を重ね覆い隠す、描きつつ消す、輪郭をぼかしたりブレさせたりする……)へのメタ意識も含めて、リヒターは自らが制作することそれ自体を思考し、またイメージをめぐる思考を制作プロセスにおいて展開している、そのように感じられた。

展示会場の説明パネルは、ごく短く簡潔な文章ながら、的確で鋭く、リヒターを眼の前にした鑑賞者の思考を刺激してくれるもので、これも凄いと思った。この企画展のみならず、常設会場もパネル説明がとてもよい。

リヒター展を見た後もまだ時間に余裕があったので、ゆっくり常設展を見て回る。石内都の「連夜の街」シリーズや、ボナールから日本の画家たちが受けた(表面的には看守しづらい)影響を見せる展示をはじめ、こちらもよかった。一昨年度から授業で日本美術史も教えるようになったこともあり、日本美術を見るときの視点が自分のなかで増えていることを実感。

その後はカレーでも食べようと神保町まで歩き、古本屋巡りする時間はないのにうっかり「ロック アイドル サブカルチャー」を掲げた古書店にフラフラと入ってしまう。フィルム包装して飾ってある雑誌を見せてもらおうと店員のお姉さんに声を掛けたところ、「ソフバの表紙のですね?」とさらっとファン御用達の略語が返ってきて、ひとり勝手に気分が上がる(もちろん「ハイッ! ソフバのです!」と元気よく答えた)。

「空気の流れ」と都市計画

■Richard Etlin, « L’air dans l’urbanisme des Lumières », dans Dix-huitième Siècle, n°9, 1977 ; Le sain et le malsain, p. 123-134. doi : https://doi.org/10.3406/dhs.1977.1119 

Michel Foucault, Les Machines à guérir : aux origines de l'hôpital moderne, P. Mardaga, 1979.

アラン・コルバン『においの歴史:嗅覚と社会的想像力』山田登世子鹿島茂訳、藤原書店、1990年。

以下、『においの歴史』からメモ。

 

これ以降、「換気」ということが公衆衛生戦略の基軸となる。何にもまして制御しなければならないのは空気の流れである。気体性流動体の流れを確保することは、汚物を排除すること以上に、停滞と固定に対する恐怖と関連している。

(126ページ)

気体論の理論が啓蒙主義の建築に与えた影響はよく知られている。[…]計画の立案者の野心は、「建築の手段はすべて、空気を捕え、循環させ、排除するためにのみ用いる」ことだった。[…]リヨンの病院はこの点でモデルとなるものである。スフローは、楕円形の形態のおかげで空気が淀むことなく、すべて上のほうへと昇っていくような丸天井の部屋を考案する。

(131ページ)

拱廊の目的はこれ以後、建物の下部の換気を可能にし、瘴気の逆流を断ち切ることに変わる。柱廊は空気の入れ換えを確実に行ない、散歩者が空気の戯れに身をさらすことができるようにする。門と窓を大きく取り、向かい合うかたちで扉を部屋に取り付け(この方法はしばしば称賛された)、廊下を広くし、悪臭の導管になる塔や螺旋階段は廃絶するという方針は気体論的強迫観念の強まりを雄弁に物語っている。[…]こうして、一階を放棄して、二階に住むべしという主張が行われるようになっていく。

(131-132ページ)

 

・1713年:ゴージェ『火の力学』出版。室内で暖炉を中心に環流する空気流をコントロールすることで、暖房と換気を同時に行うことを提案。ゴージェが想定していたのは私的空間、とりわけ女性の部屋であり、空気の循環によって婦人病の治癒を試みるものだった。後世に重要文献となる。

・1736年:デザギュリエがゴージェとトゥラルの著作を英訳、さらに英国下院に換気装置を導入。1730年代後半にはヨーロッパ各地で相次いで換気装置が設計・導入される。

・1783年4月10日王令:空気の流れを妨害しないよう、通りの広さと建物の高さに関する規制が発令される。

・ルドゥーが『芸術、習俗、法制との関係の下に考察された建築』(1804年)で提示する「ショーの理想都市」に、モナ・オズーフは「気体論的な流れの影響」の体現を見てとる。

Cf. Mona Ozouf, "L'image de la ville chez Claide-Nicolas Ledoux," dans Annales E. S. G., novembre-décembre 1966, pp. 1273-1304.  https://www.persee.fr/doc/ahess_0395-2649_1966_num_21_6_421483

ショーの町の家屋や公共建築物は「いっさい密着せずに一つ一つ独立している」。明白な機能性、建物同士の間隔の開き、それに左右対称性[…]などは、都市の健康状態を示す以外に、都市の構造が一目で読み取れ、しかも見る人にとって視覚的幸福感があるといった長所を作り出す。(コルバン、134ページ)

 

シャルル・フーリエ覚書

■Bibliothèque de l'école des chartes, Vol. 163, No. 1, janvier-juin 2005.
ENTRE NOSTALGIE ET UTOPIE: RÉALITÉS ARCHITECTURALES ET ARTISTIQUES AUX XIXe ET XXe SIÈCLES
Persée : https://www.persee.fr/issue/bec_0373-6237_2005_num_163_1

Marion Loire, « L'Architecture écrit l'Histoire » : les projets architecturaux des fouriéristes, 213 - 239を含む。

フーリエ関連文献一覧:ANTONY Michel, BOUCHET Thomas, « Bibliographie : Fourier » , charlesfourier.fr , rubrique « Bibliographies (tout ou presque sur...) », mai 2014, en ligne : http://www.charlesfourier.fr/spip.php?article1328 (consulté le 17 septembre 2022).

■Archives Nationales Fonds Fourier et Considérant (1796-1899) 10AS/15 https://www.siv.archives-nationales.culture.gouv.fr/siv/UD/FRAN_IR_024158/d_1_1_15

フーリエの理想の都市計画論が開陳される「1796年12月ボルドー市当局宛書簡(Lettre sur la reconstruction de Bordeaux. Marseille, 20 frimaire, an V.)手稿を含む(10AS/15 Pièce 18)。当該書簡(マニュスクリプト)のデジタルデータ公開は無し。

1796年12月ボルドー市当局宛書簡

フランス全土旅行で、当時の街並みの単調さに衝撃を受ける。「新しいタイプの都市モデル」を構想。「大火災を予防し有毒な腐臭を消し去る」ことが可能とする。

(ビーチャー、56ページ。Cf. AN 10AS 15 (18))

そして、ボルドーこそモデル都市建設の場に相応しいと主張する(ビーチャー、60-61ページ)。

・1789年(フーリエ17歳)、初めてパリを訪れ、建築と都市計画への関心を掻き立てられる。道幅の広い大通り、気品に溢れる邸宅、とりわけパレ・ロワイヤル(「パレ・ド・フェ」)。

初めて統一的(unitaire)な建築を着想したのは、パリの大通りを歩いている途中のことである(1822年の回想)。彼はアンヴァリッド大通りの途中、アカシア通りとN. プリュメ通りの間にある、2軒の小さな家の素晴らしさに目をとめる。「私は時を経ずしてその規則を見極めるようになった」。

(ビーチャー『シャルル・フーリエ伝』59ページ。アントロポ版フーリエ全集第2巻「Sommaires」209ページに依拠とのこと。)

・「ルーアンとトロワの二都市の醜さが衝撃的だったために、われわれのののとはきわめて異なる都市の計画を私は構想したのである。この配置については後で説明しよう。[…]これこそは家庭秩序に改良をもたらし、しだに情念系列の計算の発明へ導くものである」。

(アントロポ版フーリエ全集第10巻(草稿1851)17ページ。)

・1789年末、「パリの大通り[ブールヴァール]を初めて歩きながら」、新しいタイプの「統一的建築」を構想しようと思いをめぐらせはじめる。

(ビーチャー、42ページ。アントロポ版フーリエ全集第2巻「Sommaires」209ページに依拠。)

 

 

 メモランダム

1988年9月刊行の『WAVE』(特集:サイバーシティ東京)を読んでいて、「デッドテック」という言葉を知る。おそらく現在はもう生き残っていないヴォキャブラリーではないか。先端的なテクノロジーのイメージと死や病や崩落とが結びつく表現が、この頃に盛んになることに注目してきたのだが、「dead tech」という撞着語法的な語彙が当時存在していたとは。

 

  • 武邑光祐インタヴュー(聞き手:小川巧)「デッド&サイバーテック」

この特集号には、まず武邑光祐のインタヴューが収められている。武邑は、1980年代の初めから「デットテックな人工自然」に関心を寄せ始め、それはS.R.L(サヴァイヴァル・リサーチ・ラボラトリー)*1などの「ジャンク・マシーンとヘヴィ・メタルな文脈」のなかの、「廃墟を巡るさまざまな状況」が具体的になってきた時代だったと語る。当時ニューヨークではピア34の桟橋倉庫廃墟などを利用し、廃墟をテーマにした美術展や、廃墟の壁そのものを利用した作品展示なども行われていたという。(この種の1980年代インダストリアル廃墟趣味は、日本固有のものではなかったようだ。もちろんサイバーパンク、建築界のダーティリアリズム、ノイズやインダストリアルに分類される音楽とそれを取り巻く文化の系譜など、さまざまな要素が絡み合うなかで生まれ、国際的に影響し合って生成と変容を遂げたジャンルなのだろう。その辺りを広範に、かつ個別事例の固有性を切り落とさず丹念に浚ったうえで「見取り図」を作成するのは、かなり大変な作業になりそうだが。)

 

その時代にデッド・テックという言葉がハイテックの反語として、あるいは倒立した概念として出てきました。一般にデッドテックな風景として第一次、第二次世界大戦を通して崩れていった風景、あるいは過去の膨大な時間をひきずっている遺跡の発掘などによってたちあらわれていく廃墟などがあります。つまり掘り起こすこと、探査することで出現する廃墟と、今までそびえ建っていた人工的なアーキテクチャーが腐蝕と酸化と共に短期間の間に崩れてしまったもの、二つの戦争によって残骸として残された廃墟の三つがあります。そうした廃墟の中でも、僕が興味を持ったのは一九四、五〇年代に建てられたアーキテクチャーだとか、六〇年代に月へいった「スペース・ミッション・プログラム」の残骸や「ニュークリア」、核、原発ですね。この宇宙と核を巡る巨大な人工自然といったものが徐々に朽ち果ててきているといった廃墟性なんですね。

(『WAVE』第19号、1988年9月、26ページ。)

 

この武邑のインタヴュー内で言及されているのが、ドイツの写真家マンフレート・ハムManfred Hamm(文中では「マンフレッド」表記)の『Dead Tech: A Guide to the Archeology of Tomorrow』原著1981年、英語版1982・2000年(Amazon.jpでまだ中古が売られている)、スイスの写真家ルネ・ビュリRene Burri(文中では「レネ・ブーリ」表記)の『American Dream』1986年、アルゼンチン出身で、『RE/Search』誌のJ.G.バラード特集号(1984年)の写真も手がけたアナ・バラッドAna Barrado*2

またインタヴュー後半では、テクノロジーを人間の神経系と繋いで、「インナー・ヴィジョン」を得たり精神的なセラピーを実施したりするプロジェクトについての言及がある。武邑自身も認めている通り、ニューエイジがドラッグでやろうとしたことを、神経系とテクノロジーの接続によって発展させるという性質も強いようだ。広く言ってしまえば「サイボーグ」的技術だと思うが、この時代固有の要素もあって面白い。三上晴子によるプロジェクトのコンセプトなども考え合わせると、「神経(ニューロ)」への注目がそれに当たるのではないかという予感を持っている。それが「身体の廃墟化/廃墟としての身体」にも繋がってくるのではないか。よくよく調べてみたら外れているかもしれないけれど。

 

  • 三上晴子インタヴュー(聞き手:今野裕一)「ニューヨークのアイアン・アート:S・R・L/TODTたちの活動」

ここで三上が賞賛するのが、上掲のS.R.Lと、それからT.O.D.T*3というアーティスト・グループである。彼女がとりわけ注目するのが、機械が人間のコントロールを越えて動く(ときに暴走する)という部分だ。そこでは、機械の精確さ、忠実さ、被統御性といった一般的な(機械が人間に資する道具、目的を効率的に達成する手段であるための)性質は、その対極へと振り切れてしまっている。(インタヴューに添えられたS.R.L作品の写真には、「産業ロボットが意志をもつ漫画「わたしは真悟」を思わせる」とのキャプションが付されている。)

 

S・R・Lのパフォーマンスなんか、人間のコントロールを越えたマシン・レヴェルでの戦いでしょ。ケーブルとケーブルがほんとは接触しちゃいけないところが接触したりして変な動きになったり、人間が操作していることと違った機械レヴェルの動きでしょ。それをヤバイ止めようとか思うんじゃなくて、面白がっちゃうというか、そういうところがいいと思う。機械やテクノロジーに影響されるところがね。

(上掲誌、56ページ。)

 

彼女はバイオやコンピュータ、ロボティクスなどのテクノロジーにインスパイアされることが多いと言い、反対に「コンセプチュアル」なジャンク・アートティンゲリーなどは、人間が関与・介入しているゆえに面白くないとしている。

 

その後に収められたスチュアート・アーブライト(Stuart Arbright)へのインタヴューでは、聞き手の小川功が「ちょっと前までは廃墟感覚とかデッドテックとかいって、三上[晴子]さん達のやっていた仕事のイメージがコマーシャルなどのポピュラーな場所で使われることが多かった」(66ページ)とも発言している。この種の事実は、同時代感覚としてはある程度共有されていても、歴史化された記録としてはなかなか残りにくいので、なかなか貴重である。

 

この号の収録インタヴューには、「コンピュータ・ウィルス」をテーマにしたものもある(インタヴュイーは石原恒和)。ウィルスという病、死、人体のイメージがコンピュータにも用いられるようになったことに注目して、「コンピュータ観を変えるような契機になるんじゃないか」との発言がある。人間の想定し設計した完璧さから自ずと外れていく機械、事故的に思わぬ方向へとブレてゆく機械にこそ面白さを見出している、という点で、他のインタヴューと共通している。もちろんこの雑誌の(編集者である今野裕一氏の?)編集方針もあるだろうから、これを「同時代性」とまで言ってしまうには留保が必要だが。

 

飴屋法水×いとうせいこう 対談「東京サイバーキッズ」

無機物の一種の不完全性、無意味さ、無根拠性の支持(根拠づけることへの批判)、完全なテクノロジー有機性や「母性」・「女性性」に向かうことに抗う、創造としての「壊すこと」、身体のなかに機械を取り入れること、無機性と対極にある「演劇性」に抗うための「男の子」などについて語られる。

記事タイトルの「東京」「サイバー」そしてなにより「キッズ」という言葉遣いが、とても80年代という感じがする。現実的な意味での「子供たち」とはまた違う、概念としての「キッズ」。勝手な主観的イメージでは、大友克洋のマンガに出てくるような? ちなみに、『逃走論:スキゾ・キッズの冒険』は1984年刊行。

*1:Wikipedia英語版:https://en.wikipedia.org/wiki/Survival_Research_Laboratories、個人ブログ「ガタリ夜話」2018/3/28記事(1999年日本公演の回想):https://gatarinaeda.com/srl/

*2:1989年にはペヨトル工房から『アナ・バラッド写真集』が刊行されている。『InterCommunication』第2号(1992年)で紹介されたこともあったようだ:https://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic002/contents_j.html。まとまった説明のある日本語ブログ記事はこちら:https://atgs.hatenablog.com/entry/20130908/1378649593

*3:Fleisher/Ollman galleryのウェブサイトに、詳しい説明と作品の写真が掲載されている:https://www.fleisher-ollmangallery.com/exhibitions/todt_after_next

【メモ】同人誌『同時代』を刊行している「黒の会」の会報、「黒の会手帖」第14号(2021年11月)に寄稿したエッセイ「文学散歩というテクスト」から抜粋。

 

  「文学散歩」それじたいが、テクストの創造的な解釈行為であり、一種の翻案や二次創作でもある。まずは対象となる作品を徹底して読み込んだうえで、場合によっては曖昧な部分や余白の部分を解釈によって補わないと、文学作品の舞台や背景となっている場所を特定するのはむずかしい。さらに、文中に登場する地名やモニュメント名を抜き出すだけでは不十分である。その場所が、どう描写されているのか、物語の展開にどのような役割を果たしているのか、いかなる象徴性を帯びているのか、それを見抜かなくてはならない。現存しない地名や場所も多いから、古地図や地域史資料を丹念に調べる必要もある。そのつぎに、実際に現地に赴いて、残っている痕跡や断片や、あるいは「気配」のようなものに、眼を凝らし、感覚を向ける。換言するならば、それはテクストの探偵術であり、街角の探偵術でもあるのだ。

 

 作品に基づいて、ある土地を徹底して歩き回ることは、新たなテクストをも生み出す。たとえば川本三郎の『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(一九九六年)は、「書かれた土地」をひたすら歩くことが、徹底した解釈と註釈の行為でもあることを、如実に物語っているだろう。実際に歩いてみてから、ふたたびテクストに立ち戻れば、そのつど新たな読みが現れてくる。地名を軸に、時代や作風のまったく異なる作品が、インターテクスチュアルに繋がってゆくのも面白い。

 ふたつめの発見、というか再認識は、「テクスチュアルに伝達・共有されてゆく場所の記憶」というものが存在するということだ(「歌枕」はその典型だろう)。「市川の文学」ときてまず名が挙がるのは、万葉集に謳われた「真間の手児奈」なのだが、興味深いのは、詠み手が旅人であり、ある場所を通り過ぎる一瞬に、すでに消え去った過去の記憶を「想起」しようとしていることである(実際に会った者の個人的記憶でも、定住者にとっての土地の記憶でもない)。手児奈という女性のイメージは、真間という地名と結びつけられつつ、インターテクスチュアルな記憶としてのみ反復される。その意味では、手児奈という「古代の女」幻想は、アビ・ヴァールブルクが夥しいイメージ群を貫いて見出した「残存する古代の情念」の定型「ニンファ」の、テクストヴァージョンとも言いうるのかもしれない。

 

 

【メモ】同人誌『同時代』を刊行している「黒の会」の会報、「黒の会手帖」第14号(2021年11月)に寄稿したエッセイ「文学散歩というテクスト」から抜粋。

 

 作品に基づいて、ある土地を徹底して歩き回ることは、新たなテクストをも生み出す。たとえば川本三郎の『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(一九九六年)は、「書かれた土地」をひたすら歩くことが、徹底した解釈と註釈の行為でもあることを、如実に物語っているだろう。実際に歩いてみてから、ふたたびテクストに立ち戻れば、そのつど新たな読みが現れてくる。地名を軸に、時代や作風のまったく異なる作品が、インターテクスチュアルに繋がってゆくのも面白い。

 ふたつめの発見、というか再認識は、「テクスチュアルに伝達・共有されてゆく場所の記憶」というものが存在するということだ(「歌枕」はその典型だろう)。「市川の文学」ときてまず名が挙がるのは、万葉集に謳われた「真間の手児奈」なのだが、興味深いのは、詠み手が旅人であり、ある場所を通り過ぎる一瞬に、すでに消え去った過去の記憶を「想起」しようとしていることである(実際に会った者の個人的記憶でも、定住者にとっての土地の記憶でもない)。手児奈という女性のイメージは、真間という地名と結びつけられつつ、インターテクスチュアルな記憶としてのみ反復される。その意味では、手児奈という「古代の女」幻想は、アビ・ヴァールブルクが夥しいイメージ群を貫いて見出した「残存する古代の情念」の定型「ニンファ」の、テクストヴァージョンとも言いうるのかもしれない。