第47回社会思想史学会フーリエ・セクションに行った

2022年10月16日(日)開催の社会思想史学会に赴き、フーリエ・セクションに参加。会場は専修大学生田キャンパス。地理的には神奈川県で、生田緑地の緑に囲まれたロケーション(すでに紅葉が始まっていた)。

大会案内:http://shst.jp/home/conference/

大会特設ページ(パスワード保護中):http://shst.jp/2022/09/02/202247/

 

フーリエ・セクション「フーリエ研究の現在」では、まず福島知己氏と藤田尚志氏より、それぞれ「「シャルル・フーリエ『産業の新世界』の構成と位置づけ」と「フーリエ的思考と結婚の脱構築ベルクソンドゥルーズを参照しつつ」と題された報告があり、それに対して討論者の金山準氏(プルードン研究)と清水雄大氏(フーコーを中心とするフランス近現代哲学研究)の立場からコメントがなされた。

 

私は「フーリエの思想と建築・都市計画」という関心から参加したのだが、知識を得るとともに思考もおおいに触発される、とても良い機会だった。いくつか自分なりの関心に引っかかったポイントを。

会場との質疑応答では、経済学研究者の立場から、「フーリエの発想(『産業の新世界』で具体化されるファランステール計画など)は、周囲の空間を変えれば行動が変わるというものであり、これは行動経済学の考え方ではないか」との指摘があった。この行動経済学の背景には、背景に「行動主義」の考え方があり、これはアーレントが「人間を動物に還元するもの」として痛烈に批判したものである。しかし、フーリエの場合は、そのような「設計主義」に「偶発性(きまぐれ)」を導入するという特性があるのではないか? つまり、「ナッジ」の考え方と似て非なるものではないか、というのである。

フーリエの「新しい社会秩序は新しい建築を必要とする」という発想は、まさに環境管理型権力的であり、18世紀終わりのパノプティコン構想とも共通するのではないか、と私も考えていたところである。確かにそのような側面もあるが、そこに「きまぐれ(偶発性)」という要素が取り入れられているという指摘には、はっと気づかされるものがあった。

この点については、「フーリエはある種の「改造主義」であり、「気まぐれ」も設計主義に含みうる(それがフーリエの危険性でもある)、権力との関係も両面性をもつ」という指摘もなされた(清水氏)。フーコーは『監獄の誕生』で、フーリエそのものには言及していないが、ベンサムパノプティコンを「管理されたファランステール」と称しているという(福島)。その後に展開された議論では、フーリエの「きまぐれ」には、権力への抵抗の契機も見出しうること、設計(設定)されたオルジアの場が、性的欲望への気付きをもたらすこと(フーリエのいう「セリー」も一種の発見装置であること)、ナッジなどドゥルーズのいう環境管理型権力については、そのなかに組み込まれている人がそのことを「知っている/知らされているか」が重要であること、フーリエにとって重要だったのは、広い社会領野のなかに情念を解き放つことであり、それが新しい情念の分岐を生み出す、つまり広い社会のなかで自分が自分を見つけ出すことに繋がることなどが指摘された。フーリエによれば、各人の性的嗜癖manieが特殊であればあるほど、遠くへ旅行しなければならず、そこで合致する嗜癖の人間に出会い、新しい嗜癖を発見することとなる。つまり、文明-調和のなかを常時移行することが求められているという(Cf. ファランステールにおける「隊商宿」)。もっとも福島氏によれば、フーリエが提示したのは「規範」ではなく「記述」との由。

藤田氏の報告で焦点の当てられた結婚と性愛という契機、また質疑応答の場で言及のあった旅行というテーマも、私自身のフーリエに対する関心にとって、重要な鍵概念であることを再確認する。(どこかの地方自治体が、最近「AI婚活」なるものを打ち出したというニュースを見たときには、「最新テクノロジーによるフーリエみたいだな」と思ったのだが、AIはきまぐれ(偶発性)を排除するという点では似て非なるものなのだろう。)

以下、自分用メモ(学会で出された発言ではなく、私自身の着想)。フーリエは、自身で言及する建築の趣味はむしろ前時代的だが、「環境管理型権力」という点ではパノプティコン(さらにはルドゥーの「アルケ・スナンの王立製塩所やサドによる放蕩の館計画など)とも共通する、「建築物の構造によって人間の行動や内面を変える」「新しい建築物は新しい社会秩序をもたらす」という発想の持ち主であった。
このギャップはどこに出来するのか?
Cf. フーコーパノプティコンを「管理されたファランステール」と称す」

また、フーリエファランジュ(理想的共同体)にとっても「旅をすること」は重要である。これは人間の交流と循環をもたらすものである。
Cf. 18世紀における旅、あるいはサドにおける旅などとの比較

 

これはずいぶんと大雑把な「日常へのあてはめ」になってしまうが、最近の大学に要請されている「学習成果の可視化」(ラーニング・ポートフォリオや学習カルテによる学習履歴のデータ管理)や、コロナ禍でいっきに普及したLMS(教育管理システム)などのテクノロジーで、学生の授業資料へのアクセス履歴から、講義動画視聴時間まで監視とコントロールができてしまうこと(講義動画の倍速視聴や同時再生に対し制裁を行なった大学もあったとか)なども、要は(環境)管理型権力の一種なのではないか。それを「望ましい規範」だとか「文科省の要請だから」などといって、無批判に、あるいは目をキラキラさせて唯唯諾諾と従うことの危険性も、改めて認識させられた。勤務先でもいちどドゥルーズの管理社会論で読書会をすべきなのではないか、ジェリー・ミラーの『測りすぎ』とともに。そもそも「権力には批判的であることが必要(check & balanceを機能させるためにも)」という考え方自体が、共有されていないのだろうなと思う。フーリエには全然関係ない話になった。

 

学会会場に出店していた晃洋書房で、『ユートピアのアクチュアリティ』と『アート・ライフ・社会学:エンパワーするアートベース・リサーチ』の2冊を購入。後者で紹介されているart-based research(ABR)の考え方は、今秋から開始となった大学コンソーシアムの共同研究にも参考になりそう。ABRもSEA(socially engaged art=社会参画型芸術)などと並んで、すでにさまざまな批判も出ているだろうから、そういうメタレベルからの批判も織り込みつつ、実践という形で探究できれば。

 

午後は東京に戻り、根津美術館を訪問。11月に課外授業の美術館ツアーで訪れるので、その下見も兼ねて。企画展では蒔絵が取り上げられていた。一言で「蒔絵」といっても多様な技法があり、地の黒とのコントラストも含めて多彩な表現が可能であることを目の当たりにする。庭園にはさまざまな草木が植えられ、歩くだけで精神が浄化される。苔むした石仏や池に浮かぶ庵つきの質素な船(水に侵食されて荒屋の趣がある)、点在する庵(茶室)の簡素さ(まさに『小さな家の思想』)を堪能する。ここ数年なぜか心を惹かれているガンダーラ美術についての解説本と、白檀と龍脳を調合した美術館オリジナルのお香を買って帰宅。