ゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)

 

昨日は当日券完売済で入場できず、関連書籍だけ買ってとぼとぼと引き上げたリヒター展、やはり大きさやマティエールなどを確かめるためにも実物を見ておきたいと思い、再び竹橋に。結論から言うと、やはり実際の展示を見られて本当によかった。見逃した人は、わざわざ巡回先の豊田市美術館に赴くだけの価値はあると思う。

実はリヒターについては「現代のスターアーティスト」程度の認識で、「アトラス」シリーズについてB. ブクローが論文を書いていたけど当時の自分には今ひとつ消化できなかったことと、SONIC YOUTHのアルバムジャケットの絵の人というくらいしか予備知識がなかったのだが、会期終了間際に「ビルケナウ」という連作が出展されていることを知り、これは俄然行かなくてはと思い立ったのだった。

展示室には敢えて展示順序は設けられておらず、個々人の関心に沿って観覧する方式。まずは実物を確かめたかった「ビルケナウ」連作へ。ディディ=ユベルマンの著作『イメージ、それでもなお』に触発を受け、ビルケナウ絶滅収容所で秘密裏に撮影された4枚の写真を元にした「フォト・ペインティング」の上から、油彩絵の具の層をスクィージで塗りつつ削る手法で制作されたという。絵の具の層の下に描かれている絶滅収容所の光景が、表面から少しでも視認できるのかどうか知りたかったのだが、完全に塗りつぶされていると分かった。スクィージで引っ掻かれた表層は、ビルケナウ収容所に生えている(地名の語源でもある)白樺の樹皮を連想させた。実際リヒターには、ビルケナウ・シリーズとは独立したもののようだが、《グレイ(樹皮)》と言うタイトルの、やはりマティエールが樹皮の捲れ剥げかけた白樺を思わせる作品もある。

カンヴァスに油彩で描かれた「ビルケナウ」4連作の実物大の写真複製も、向かい合わせに(鏡像のように)置かれている。ビルケナウに顕著な表面のマティエールは、当然ながら消えている(図録やウェブ、あるいは会場で撮影した写真を見るのと変わらない)。この連作に限らず、リヒターはフィジカルで物質的な作品とその複製との関係、メディウム間を越境しつつ複製するというプロセスで顕わになるものに、意識的だということが分かった。リヒターにおいては、複製はcopyというよりduplicate(二つにする)という語の方がはまるように思う。

表層の凹凸や絵の具の物質性は豊かなのだが、作家個人の身体痕跡だとか、アブジェクシオンとかいった生々しさは不思議と希薄で、その点が他の「マティエール系」絵画作品とはだいぶ異なるように思った。スクィージの使用による、平された表面と規則正しい削り跡のせいもあるだろうか。

すでに物心のつく年齢で第二次大戦を経験した世代のドイツ人、という立場も含めて、リヒターは芸術家としての自己の責任と倫理のようなもの、何をどう引き受け表現するのかということに、極めて意識的だと思った。イメージへと加える操作(複製する、上から絵の具を重ね覆い隠す、描きつつ消す、輪郭をぼかしたりブレさせたりする……)へのメタ意識も含めて、リヒターは自らが制作することそれ自体を思考し、またイメージをめぐる思考を制作プロセスにおいて展開している、そのように感じられた。

展示会場の説明パネルは、ごく短く簡潔な文章ながら、的確で鋭く、リヒターを眼の前にした鑑賞者の思考を刺激してくれるもので、これも凄いと思った。この企画展のみならず、常設会場もパネル説明がとてもよい。

リヒター展を見た後もまだ時間に余裕があったので、ゆっくり常設展を見て回る。石内都の「連夜の街」シリーズや、ボナールから日本の画家たちが受けた(表面的には看守しづらい)影響を見せる展示をはじめ、こちらもよかった。一昨年度から授業で日本美術史も教えるようになったこともあり、日本美術を見るときの視点が自分のなかで増えていることを実感。

その後はカレーでも食べようと神保町まで歩き、古本屋巡りする時間はないのにうっかり「ロック アイドル サブカルチャー」を掲げた古書店にフラフラと入ってしまう。フィルム包装して飾ってある雑誌を見せてもらおうと店員のお姉さんに声を掛けたところ、「ソフバの表紙のですね?」とさらっとファン御用達の略語が返ってきて、ひとり勝手に気分が上がる(もちろん「ハイッ! ソフバのです!」と元気よく答えた)。