【メモ】同人誌『同時代』を刊行している「黒の会」の会報、「黒の会手帖」第14号(2021年11月)に寄稿したエッセイ「文学散歩というテクスト」から抜粋。

 

  「文学散歩」それじたいが、テクストの創造的な解釈行為であり、一種の翻案や二次創作でもある。まずは対象となる作品を徹底して読み込んだうえで、場合によっては曖昧な部分や余白の部分を解釈によって補わないと、文学作品の舞台や背景となっている場所を特定するのはむずかしい。さらに、文中に登場する地名やモニュメント名を抜き出すだけでは不十分である。その場所が、どう描写されているのか、物語の展開にどのような役割を果たしているのか、いかなる象徴性を帯びているのか、それを見抜かなくてはならない。現存しない地名や場所も多いから、古地図や地域史資料を丹念に調べる必要もある。そのつぎに、実際に現地に赴いて、残っている痕跡や断片や、あるいは「気配」のようなものに、眼を凝らし、感覚を向ける。換言するならば、それはテクストの探偵術であり、街角の探偵術でもあるのだ。

 

 作品に基づいて、ある土地を徹底して歩き回ることは、新たなテクストをも生み出す。たとえば川本三郎の『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(一九九六年)は、「書かれた土地」をひたすら歩くことが、徹底した解釈と註釈の行為でもあることを、如実に物語っているだろう。実際に歩いてみてから、ふたたびテクストに立ち戻れば、そのつど新たな読みが現れてくる。地名を軸に、時代や作風のまったく異なる作品が、インターテクスチュアルに繋がってゆくのも面白い。

 ふたつめの発見、というか再認識は、「テクスチュアルに伝達・共有されてゆく場所の記憶」というものが存在するということだ(「歌枕」はその典型だろう)。「市川の文学」ときてまず名が挙がるのは、万葉集に謳われた「真間の手児奈」なのだが、興味深いのは、詠み手が旅人であり、ある場所を通り過ぎる一瞬に、すでに消え去った過去の記憶を「想起」しようとしていることである(実際に会った者の個人的記憶でも、定住者にとっての土地の記憶でもない)。手児奈という女性のイメージは、真間という地名と結びつけられつつ、インターテクスチュアルな記憶としてのみ反復される。その意味では、手児奈という「古代の女」幻想は、アビ・ヴァールブルクが夥しいイメージ群を貫いて見出した「残存する古代の情念」の定型「ニンファ」の、テクストヴァージョンとも言いうるのかもしれない。