2023年7月8日(土)・9日(日)に開催される表象文化論学会第17回大会(東京大学駒場キャンパス)にて、「「ままならない身体」をめぐる思考と実践」と題したパネルを実施します(小澤は企画と当日の司会を務めます)。一部に来場者参加型のワークショップも取り入れました! ぜひご来聴、ご体感ください。
■大会ウェブページ:1日目のシンポジウム・パフォーマンスをはじめ、今回も面白い企画がてんこ盛りです!
www.repre.org
■「「ままならない身体」をめぐる思考と実践」パネル:7/9(日)16:30-18:30(午後2)、Komcee East 2階 K212
・自己の身体に対する解像度を上げる──大野慶人の舞踏の稽古/宮川麻理子(立教大学)
・不/自由なダンス──老いを巡るダンスドラマトゥルギー/中島那奈子(ダンスドラマトゥルク)online
・「なりきる」から始まる、自身の表現機会/小川千尋(東京経営短期大学)
【コメンテイター】外山紀久子(埼玉大学)
【司会】小澤京子(和洋女子大学)
www.repre.org
「パネル概要」欄は600字に収める必要があり、また当日も司会者がくだくだしく説明している時間はないので、ここに私がこのパネルを構想するに至った前提を記しておきます。
■パネル概要(上掲パネルページにも掲載されているもの)
私たちの身体は、しばしば意志による統制や管理を逃れるし、また往々にして一般化・標準化された規範からは外れている。幼年期の身体、病(怪我や障がいを含め)の身体、さらには老いを迎えた身体は、より意志や規範をすり抜けてしまうことが多いだろう。本パネルでは、このままならない身体、不自由な身体に対して、芸術表現がもたらしうる効果を、実践の場から検討する。
本パネルでは、3名がそれぞれの立場から、ワークショップも含む研究発表を行う。宮川は、大野慶人による舞踏稽古が変容・生成させる身体の内部図式を、中島は、歳を重ねるダンサーの身体をめぐる実践的思考と、「老い」がもたらす共時的・通時的な繋がりの可能性を、小川は、幼年期の「模倣する身体」の取り戻しによる自己の認識や解放を提示する。そのうえで、芸術の身体性に注目し、「ムーシケー型アート」と自己治癒という側面から捉える美学研究者・外山がコメントを行う。ここからは、自己の身体の捉えにくさ、不確かさと、それをめぐる受容や確認、あるいは認識変容のプロセスが浮かび上がってくるであろう。
本パネルは、身体をめぐる思考と実践のオルタナティヴとして、「規範的」で「完全」な身体やその動きから外れ、こぼれ落ちるものを掬い取る試みである。同時に、卓越化や権力、制度化に絡め取られた「芸術」の隙間や外部に、身体を用いた芸術活動から生まれる、自己確認や自己変容という契機を探るものでもある。
■このパネル企画に至った前提(企画者の個人的な考え)
・旧世紀の日本の「体育」教育に典型的だった「身体の規律訓練(M.フーコーのいうディシプリン)」や「集団の管理」という性質=数値的な「卓越」の競い合い、整列、前へ倣え……
→このような規律訓練や管理からこぼれ落ちてしまう個別の、また個々の状況下での「身体」のあり方に注目したい。
・昨今の「規範から外れた身体性」へ向けられる「迷惑」という視線への懐疑。
例えば、幼児連れの客や知的・精神障がい者の公共の場での言動を、「迷惑」として糾弾する(SNSに特有の?)傾向が強まっている背後には、「公共の場でのふるまいの規範」から外れるような身体性に対して、「大人かつ健常者」の側が寛容度ゼロになっていることがあるのではないか。
・「フェムテック」なども含めた医療技術が、「自らの身体に関する個人の主体的選択(my body my choice)」を可能にする一方で、(「生産性」のような全体主義的な理念に合致するための)「自己管理」という規範にも絡め取られていくことへの不安。
さらには、自分の身体を自分で完全に選択や支配できるというのは、幻想ではないかという懐疑(個人(特に女性)の身体が国家や家父長や宗教的権力や共同体の規範に服従するものではない、という意味でのmy body my choiceには賛同するとしても)。
・近代以降、現在に至るまでのさまざまな環境デザインのあり方(例えば都市のインフラ設計、建物内の設備設計など)が、成人、男性、若くて健康な健常者、マジョリティ民族(西洋圏であれば白人)、中産階級以上の視点からなされており、そこから外れる身体を持った者(こども、女性(妊婦や乳幼児連れを含む)、傷病や障がいを抱える者、老人、マイノリティ民族、ホームレス状態の人々…)にとっては使いづらい、アクセスできないことについて、近年では特に問題意識が高まっている(例:都市と都市文化の男性視点を告発するレスリー・カーンの『フェミニスト・シティ』2020年。邦訳:https://www.shobunsha.co.jp/?p=7246)。
これも、「集団的な規範から排除されがちな「ままならない身体性」」のテーマ系に位置づけられるはず。
・(「大学」という場で研究・教育される範囲での)「芸術/アート」には、いまだ「制度内で権威づけられた卓越性」への志向が顕著であることへの懐疑。すでに美術史が解明してきたように、ある種の「芸術」のあり方は、権力や権威主義のヒエラルキーと直結する、抑圧的なものになりやすい。
→このような抑圧や閉塞感を打破する可能性として、(すでに大流行し、陳腐化しつつある用語ではあるが)「《ケア》としての芸術/アート」という発想があるはず。
・そもそも論として、「主体的な意志」という西洋近代的(?)な発想のはらむ息苦しさへの懐疑。「自己の外へと出たい」という(個人的な)願望。
→外山紀久子氏のいう「自己表現ではなく自己変容としてのアート」という発想への共感。
・上記のようなさまざまな疑問を念頭に置きつつ、規律訓練された、若くて健常な、主体の意志で制御できる「大人(壮年)の身体」イメージからはこぼれ落ちるものとして、「こども的身体」、「老いる身体」、「病(怪我、障がいも含む)の身体」、「自分の意志による主体的コントロールを外れてしまう身体(「意に反して」動いたり動かなかったりする)」、つまり「ままならない身体」を、「頭の中で」「言葉を使って」だけではない方法で、あらためてとらえ直したい。
Cf. 小澤個人の専門に絡めた関心=啓蒙主義時代の身体の管理・規律訓練と、そこから逸脱する身体との葛藤・相克
「身体の効率的な規律訓練と管理のしくみ」という発想が生まれ、制度化されはじめたのが西欧の18世紀後半〜19世紀(パノプティコン=一望監視形式の監獄、公教育制度下での学校、工場、国家による軍隊など)。18世紀後半のマルキ・ド・サドによる「性的逸脱・放蕩(リベルティナージュ)」も、実はこの「規律訓練」の発想が組み込まれている(勤勉な訓練として性的な逸脱行為を「みんなで協働して」実践する、規則に基づくディシプリンへの偏執的なこだわりなど)。
このような「身体」のイメージからこぼれ落ちるものとして、たとえばディドロの小説『運命論者ジャックとその主人』における「歩行」があるのではないか。これは、小姓のジャックとその主人の旅の道中を描いた、二人の会話と客観視点での「地の文」から成るテクストである。ジャックは膝を怪我しており、うまく歩くことができない。
ディドロ自身、若い頃から老年まで毎日の散歩を日課としており、彼の執筆においても、「歩くこと」は重要な要素である。例えば芸術批評である『サロン評』では、彼はヴェルネ作の風景画連作を、「絵の中を、ガイド役と対話を交わしながら旅し、歩く人物」の視点に仮託しつつ描写し、その評価を語っている。つまりここでは、「歩くこと」と「見る/観察する」ことと「思考すること/語ること」の三項が、互いにシンクロしながら展開している。ディドロの「歩行=語り」には、一般に理性や言語(=「ロゴス」の領域)がそうだと考えられているような「リニア(連続した直線的)」な運動ではなく、迂回路や蛇行、眠りと夢のような脇道への逸脱が含まれている。このような、「効率的でリニアな歩行」からの逸脱である「うまく歩けないこと」(≒うまく語れないこと、物語の進行が乱れること)がさらに強調されているのが、『運命論者ジャック〜』ではないか、という仮説。