都市の観相学 リルケ『マルテの手記』再訪

10年ぶりくらいに、リルケの『マルテの手記』を再訪した。冒頭部分で「僕は見ることから学んでゆくつもりだ」と繰り返される通り、これは一種の「観相学」を展開した書なのだと気づく。語り手の眼は、人間の顔貌はもちろんのこと、都市、室内調度、服飾といった表層を撫でまわし、丹念に言葉に換えて描写してゆく。そこで眼差しの向かう先は、デスマスクや仮面という、作中に登場する別の「表層」としてのライトモティーフとも響き合っている。

以下、いくつかの文章断片のメモ。

 

僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。[…]さっきも書いたが、僕はぼつぼつ見ることから学んでゆくつもりだ。[…]たとえば、僕は顔というものがいったいどのくらいあるかなど、意識して考えたことはなかった。大勢の人々がいるが、人間の顔はしかしいっそうそれよりも多いのだ。一人の人間は必ずいくつかの顔を持っている。長い間一つの顔を持ち続けている人もある。顔はいつのまにか使い古されて、汚くなり、皺だらけになってしまう。

(リルケ『マルテの手記』大山定一訳、新潮文庫、1953年、10-11ページ。)

着古した衣服のように、顔が使い古されて汚れ、皺ばむという描写は、カフカの皮膚ー衣服の捉え方(例えば『衣服』1908年における、着古される皮膚)とも共通するのではないだろうか。

 

しかし、あの時の女。あの女はまるで身体を二つに折ったように腰を曲げていた。両手の中へすっぽり顔を埋めてしまっていた。僕はノートル・ダム・デ・シャン街の街角で会ったのだ。僕はその女をみると、足音をしのばせて歩き始めた。[…]女は驚いて上半身を起した。あまり素早い、あまり急激な体の起しようだったので、女の顔は両手の中に残ってしまった。僕は手の中に残された鋳型のように凹んだ顔をみたのである。僕はおそろしく一所懸命になって、その手の中を見つめていた。手の中から持ちあげられた顔を見ないために、僕はひどく真剣な張りつめた気持だった。裏返しになった顔を見るのは不気味に違いないが、顔のない、のっぺらぼうな、こわれた首を見る勇気はさらになかったのだ。

(上掲書、12-13ページ。)

 

僕はそのころ、ある種の服装から直接流れて来るらしい影響力のようなものを知ることができた。そんな古い衣装の一つを着ると、僕は容赦なくその奇怪な力に支配されるのを覚えるのだ。僕の体のこなしや顔の表情や偶然な思いつきのようなものまで、もう自分だけの自由にはならなかった。レースやカフスがいくら上げても落ちかかってくる僕の手は、もはやいつもの僕の手ではなかった。その手がまるで俳優のように動き出すのだ。[…]しかし、こんなふうな仮装がすっかり僕自身を失わしてしまうということはできなかった。むしろ反対に、僕がいろいろな姿に変化すればするほど、かえって自分というものがはっきり意識されてくる態のものだった。[…]しかし、その中で僕に一種の酩酊を与えてくれたものがある。それは豊かなマントや肩かけやベールなどだった。[…]僕は初めて、本当に自由な、無限の変化を含む可能性を、そこに予感することができた。これさえあれば、売られてゆく奴隷の女だの、ジャンヌ・ダルクだの、老いた王さまだの、魔法使いだの、なんにでもすぐなれそうな気がした。

(上掲書、125-126ページ。)

 

いままで一度も仮面を見たことがなかったが、たちまち僕は仮面の必要を理解することができた。[…]僕はなんのマスクをかむったのか、つい忘れてしまった。鏡の前に出て、初めて自分の姿を知るのが、新しい緊張した興味だった。[…]僕は頭ががんがんして、むしょうに腹が立って仕方がないので、鏡の前に走ってゆき、仮面の中から不自由をしのんで、僕の手をどう動かせばよいか見ようとした。しかし、柱鏡はその機会を待ちかまえていたらしかった。鏡にとって、復讐の時間がようやく訪れたのだ。僕はますます呼吸が苦しくなり、なんとかしてこの仮装を取りはずそうともがいた。すると、どうしたわけか、鏡はいつか知らぬまに僕の顔をあげさせ、じっと鏡の中を凝視させている。鏡は不思議な力で、僕にある映像を――いや、ある奇態な現実を演出させるのだった。僕は自分の意志で極力抵抗しながら、その異様な、得体の知れぬ、怪奇な現実の中に、ずるずると引きずりこまれてしまった。今や鏡が命令者になり、僕が一種の鏡に変わっていた。僕は目の前のこの偉大な恐るべき未知の存在をじっと一途に見つめねばならなかった。僕はほとんどこのような存在と相対していることに耐えられなかった。と思った瞬間、僕は何もわからなくなり、そこにぶっ倒れてしまった。

(上掲書、126-129ページ。)

ここでは鏡は、幻影や異界を映し出す場でも、自己のドッペルゲンガーを出来させるのでも、ヴァレリー『ムッシュ・テスト』のように主客の分離と交錯を見させるのでもない。オリジナルとその模像(=鏡像)の関係が入れ替わり、鏡がむしろ主体となって、鏡の前の存在に命令し、操るのである。

baby-alone.hatenablog.com

 

眠りと追憶

 年末年始の休暇のあいだ、昏々と眠った。夢の映像の断片がいくつか、いまだに脳の奥に掛かっている。

 夢の中で家にいる場面ではたいていいつも、私は前橋の実家にいる。母方の祖母の家である。プルーストが『失われた時』で描き出す、コンブレーの邸館での幼年時代の記憶の、ごく通俗的で庶民派の変奏ともいうべきだろうか。

 

 私はまだほんとうに幼い頃、一階の和室で祖母と並んで眠るのが常だった。南側には庭に面した縁側があり、午前には白い清明な日差しが、午後も3時を過ぎると黄色がかったワニスのような陽光が、雪見障子を通して入ってきた。かつてその和室には、洋箪笥がいくつかと、古い和箪笥が一つ並んでいた。和箪笥の上部には、ガラスの嵌った引き戸と、薄い小さな抽斗があり、昭和20〜30年代の古切手だとか、母一家を写した白黒の写真の束だとか、祖父や伯父たちの制服の徽章だとか、もう和装はしなくなった祖母が、以前に使っていたらしき礼装用の帯留めだとか、要はすでに用無しとなった、母方の一家にまつわる私の知らない古い記憶と結びついた物たちが、細々と詰め込まれていた。その引き戸や抽斗をこっそりと開いてみるときの、桐の木材どうしが擦れて軋む微かな感触を、いまでも掌の中に覚えている。
 その和室の西側には、洋室の居間がある。やわらかな卵色の縦縞の壁紙に、昭和の住宅によくある寄木細工の床。北の台所側にはダイニングテーブルが、南側の大きな掃き出し窓の脇には一人掛けソファ2脚の応接セットとテレビが置かれていた。

 

 昨日の夢では、寝室の洋箪笥を開いて、祖母の洋服を整理していた。祖母はもう8年前に亡くなったのだが、夢の中では「つい数日前に亡くなった」ことになっており、さらには奇妙なことに、家の中にはまだ祖母のいる気配が残っている。「これは70年代古着として外にも着ていける、これは祖母が気に入ってよく着ていたものだから、その思い出に家着にして愛用しよう」などと考えながら、ハンガーに掛かったままの服を選り分けている。

 一昨日の夢では居間にいた。私はすでに大学に勤めているが、同時にまだ10代で両親と祖母と生活している。とうに定年退職したはずの父と母は仕事に出かけ、祖母の姿は見えないが家の中にいる気配がある――夢の中ではしばしば、時間の軸が混線したり逆流したりする。テレビが点いていて、橙色の灯火がフレアを起こしたトンネル内を、走行する自動車の視点から写した映像が延々と流れている。他に走る車両もなく、ほぼ無音状態の中を自動車の擦り抜ける微かな摩擦音だけが持続し、リミナル・スペースめいた静かな不穏さが漂っている。テレビの隣に置かれた洋机には、私のノートブックPCが載せられていて、スクロールも何もしていないのに、掲示板かなにかの横書きの文字列が、常に一定の速度で上へと流れている。(目覚めてからふと考えたのだが、テレビの映像もPCの液晶モニタの文字列も、私の第一の夢に嵌め込まれた、誰かの夢、あるいは私の第二・第三の夢だったのかもしれない。)
 ふと、今日は午後から大学で授業があったことを思い出す。慌ててPCから授業資料をオンライン共有し、外出前に入浴するために風呂場へ向かおうとする。ダイニングテーブルの置かれたあたりから廊下に掛けて、南洋風の観葉植物がひしめいている――これは現実には存在したことのない風景だ。私はバスタオルを片手に、植物をかき分けて風呂場を目指すが、なかなか前に進めない。あたりには植物が一斉に放つ濃い匂いと、温室の中のような湿った温気とが立ち込めている。どこかからか、祖母の眼に見張られているのを感じる。

 

 祖母の家の出てくる夢から覚めても、夢の中と同じように、部屋のどこかに祖母の気配が濃く残り続けている。意識が次第に明晰になり、現実感覚を取り戻すにつれて、その気配は薄れて、やがて霧のように消え去ってしまう。

探偵と文学散歩と「キャラ」概念

 

  

来年度からの仕事で急遽必要になって、横溝正史金田一耕助シリーズを読み始めた。
(小学校の工作で急にペットボトルが必要になるのと同じくらい、人生には「仕事で急に金田一が必要になる」瞬間が訪れるのだ。)

新青年』系の文学は概ね好きだと自認していたはずなのだが、横溝はうっかり通らないまま来てしまった。自分が好きだったのは「モダニズム都市とテクノロジー神経症めいた経験が出来させる怪奇と幻想」のようなものであり、横溝はそこから外れているように思えたのだろう(しかし、改めて作品を読んでみると、当初の「因循姑息な地方の怨念めいた伝承と名家の呪われた血筋」という先入主とは裏腹に、横溝も「近代的」な作家だったことが分かる)。

先日は、たまたま岡山大学で研究会(ディドロの『サロン評』翻訳を研究室に缶詰になって検討し合う会)が開催されたこともあり、その折に少し足を伸ばして、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』のロケーションともなっている真備町周辺(横溝正史疎開宅のある近辺)も訪れてみた。

横溝の文章は基本的に(もちろんよい意味で)分かり易くて説明的だし、描写も読んでいてはっきりとした視覚的イメージを結びやすい種類のものである。作品発表当時から現在に至るまで、数多くの映画化・TVドラマ化がなされてきたことにも、改めて納得がいく。三人称の全知の語り手という形式も、映像化に向いているのだろう。

また、金田一耕助はその強烈な外見をはじめとして、こんにちの言葉でいう「キャラ」概念に馴染みやすい人物造形であることにも気づいた。昨今では金田一耕助の「コスプレ」をして作品ゆかりの地点を巡るイベントも開催されているし、真備町を歩けば顔はめ看板、文学散歩マップ、溝口正史疎開宅の障子に映し出される金田一のシルエットなどなど、金田一耕助の「キャラ性」の強さを実感させられる事例があちこちに見つかる。これは、同じ「名探偵」である明智小五郎について明確なパブリックイメージが存在していないのとは、ずいぶん対照的だ(もちろんこのことは、作品内で描かれる明智の外貌が、時を経るにつれて刻々と変化していったことに拠るものだろう)。「金田一」を表すには、シルエットでも、あるいはチューリップ帽一つでも事足りてしまうが、同じことを「明智」でやるのはどだい無理だろう。

ただし、特徴的な作中人物の過剰な「記号化、キャラ化」や、ここ10年くらいで急速にビジネスと行政による「まちづくり」・「まちおこし」系の文脈で喧伝されるようになった「コンテンツ・ツーリズム」一辺倒の見方が、テクスト経験と場所の経験のいずれをも一面的で平坦なものにしてしまうおそれへの批評的な視点も、少なくとも学術の場にいる者であれば持っていて然るべきではないか。この辺りの論点については、「シャーロック・ホームズとコンテンツ・ツーリズム」周辺を掘ってみると、考えるための補助線がいろいろと見つかるのでは、という予感がしている。

ところで、探偵とは、微細な徴候や痕跡から推論に基づいて「謎解き」を行う者であると同時に(ベンヤミン、ギンズブルグ)、社会のなかの浮遊的な存在として描かれることも多い。後者の性質については、似た職能を担う警察が国家の権力組織に組み込まれた法の執行者であるのとは対照的だ。こういうところにも、「探偵」の魅力があるのだろうと思う。

 

 

 

 

 

北方旅行

8月中旬、東北から北陸にかけてを旅した。そのときのメモ。写真はFacebookに。

8/10(土)には青森県立美術館に赴き、まずは「メディシン・インフラ 鴻池朋子」展とその一環としての連続パフォーマンス「筆談ダンス」を見学した。この企画展は、「健全・健常」を外れた身体、「メディシン」が持つ霊媒的な、あるいは「他者になる」という意味合い、食べる・食べられる、寄生する・される、排泄する、死ぬことによる自然界との循環など、研究課題である「ファルマコン(毒/薬の両義性)」というテーマを考える上で、まさに重要な題材となるものであった。
合わせて、開催中の地方芸術祭「AOMORI GOKANアートフェス2024」の一環である栗林隆による展示「元気炉」も体験。「科学技術」というファルマコン的なものの象徴である「原子炉」のパロディとして、薬草を使ったスチームサウナを来場者参加型インスタレーションとした本作も、研究テーマに対する示唆を与えてくれた。
建築家・青木淳設計の美術館の建物は、導線が複雑で「どこに何があるのか」が予測しづらい平面図になっている(館内には案内が充実しているため、実際に迷うことはほとんどないが)。縄文時代の遺跡上にあるため、このような作りになっているとのこと。展示室に向かう回路も効率的な直線ではなく、スロープや細い通路などの迂回を経るのだが、そのことによって作品に辿り着くまでの行程が、一種の「巡礼」のようなものになっているという印象を受けた。

8/11(日)には、まず午前中に三沢市寺山修司記念館を訪れ、企画展「青女たち・女神たち寺山修司の女性論」と常設展示、映像資料・演劇資料の閲覧を行った。
元々計画していた研究テーマ(女性イメージ、「皮膚、疱瘡(皮膚病)、白塗り」の系譜)に加えて、寺山がかなり早い段階から「クィア」的な人物を意識的に演劇に登場させていたこと(『毛皮のマリー』、『星の王子様』など)に気づかされた。
寺山記念館でのフィールドワークが予定よりも早く終わったため、午後は十和田市現代美術館へ赴き、企画展「野良になる」と常設コレクションを体験・見学した。青森県美の「メディシン・インフラ 鴻池朋子」展と同様、十和田現美の「野良になる」も、人間-動物(昆虫や微生物、死者なども含む)-植物-無機物・人工物の間の人為的な境界を超えた「マルチスピーシーズ」や「アクターズネットワーク」がテーマになっているように見受けられた。この2つは昨今の人文学で国際的に注目されている概念であるが、それゆえ「便利なマジックワード」と化しているきらいもあり、この点についても今後掘り下げて考えるべきという課題を得られた。

8/12(月・祝)は山形に移動し、出羽桜美術館にて「斎藤真一 放浪記」ほか斎藤真一の絵画作品現物と制作の背景・文脈となる資料を閲覧した。画集などの複製メディアでは分からない作品の細部やマティエールを確認できた。

8/13(火)は山形-富山間の移動(所要時間は約6時間)に費やした。月曜祝日後の火曜日で、博物館・美術館・文書館の類は軒並み閉館ということもあり、この日は調査研究は行なっていない。

8/14(水)は富山県美術館に赴き、瀧口修造コレクション展ほか、常設の美術品・デザインプロダクトのコレクション、企画展の「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」展、内藤廣設計の建築につきフィールドワークを行なった。
瀧口の「オブジェ」コレクションとそれに関する言説からは、瀧口固有の思考のあり方だけでなく、同時代に重複する分野で美術批評家として活動した澁澤龍彦との「オブジェ」に対する捉え方の違いも浮かび上がってきた。
富山県美の特徴であるデザインコレクションや、館内のデザインへの徹底したこだわりからは、20世紀モダニズム建築以降の「建築とプロダクトデザイン(特に椅子)」の密接な関係という、「建築」や「身体とデザイン」を考える上での重要な論点にも気づくことができた。

マキコミヤの祝祭に巻き込まれてみた

7/14(土)、7/15(日)に、福岡県で開催された「マキコミヤ」の学術イベント、VerbFes#2と『シャルル・フーリエの新世界』刊行記念のトークに登壇した。

「マキコミヤ」とは、2019年に逝去した哲学者・宮野真生子を記念し、彼女の「知的で面白いことをしたい」という志を引き継ぐべく発足した、緩やかに連帯しながら将来に繋いでいく企画である。

 

7/14(土)には、登壇者が「動詞」を一つ持ち寄りプレゼンテーションするという学術イベント「VerbFes#2」に登壇した。

私は「さまよう」をテーマに、さまようことの可能性、哲学や文学における「さまよう」こと、「さまようこと」の意味がジェンダー(それから社会階層)によって異なってくることの問題などを取り上げた。

他の登壇者からはそれぞれ、「聞く」、「蒔く」、「つながる」、「べそをかく」、「うんこする」、「posess(憑依する)」、「絡む」、「変態する」という動詞にまつわる、個々の実践や思考、さらにはパフォーマンスが提示された。この「VerbFes」では、各自が持ち寄る「動詞」は事前には公開しないという決めごとがあり、あらかじめの相互調整などはできないのだが、「さまようことの受動性、非自発性ゆえの出会いや開かれ」「制度化されたものからの逃走」という私自身にとってのテーマは、その後の個々の(動詞としてはまったく異なる)発表とも響き、つながり合っていくものであり、懇親会で得られたフィードバックとも含めて、大いに示唆を得られた。

 

7/15(祝)は、私も論考「フーリエの理想建築構想とその変貌」を寄稿した分担執筆書籍『シャルル・フーリエの新世界』の刊行を記念するトークフーリエを笑いものにするとき、われわれは何を犠牲にしているのか?」に、編者の福島知己氏、執筆者の藤田尚志氏、司会の逆卷しとね氏とともに登壇した(対面・オンライン併用)。

論集には収められなかった発展的な話題やスピンオフの題材も含めて、研究成果を社会に広くアウトリーチし、さらにはフィードバックを得る稀有な機会となった。シャルル・フーリエの思想を元に音楽を作っている、詩を書いているという来場者からもコメントが寄せられ、狭い研究者間の共同体では得られない、フーリエのポテンシャルを垣間見ることもできた。

 

二日間の「巻き込まれ」を通して、興味深い活動実践を行っている多くの人々と新たに出会えて、自身の思考のダイナミクスを稼働するような、なにかうねりのようなものを受け取ることができた。 

2024年7月の活動予定(vita activaの月)

🎋7/7(日)七夕:表象文化論学第18回大会(関西学院大学ス)にて、ワークショップパネル「日常記憶地図」を開催します。

パネル概要はこちら👉https://www.repre.org/conventions/18/w2/index.php

*学会員でなくともご参加いただけます(要事前予約+1,000円)。詳細はプログラムページ(https://www.repre.org/conventions/18/)をご覧ください。

 *ワークショップにご参加いただく場合は、「地図」の事前準備が必要です。詳細はパネル概要ページ(https://www.repre.org/conventions/18/w2/index.php)をご覧ください。

 

🇫🇷7/14(土)革命記念日:13:30から小倉市 Gallery Soapにて、「VerbFes #2」に登壇します。「知的闇鍋」感のあるインプロ企画。どんな動詞が飛び出し、互いの関係を形づくるのか、私自身も楽しみです。
イベント概要はこちら👉https://www.project-makikomiya.com/collectives(「前々々夜祭」欄をクリック)
 
🌊7/15(日)海の日:福岡市天神のブックカフェ「本のあるところajiro」にて、『フーリエの新世界』(水声社、2024年)刊行記念トークフーリエを笑いものにするとき、われわれは何を犠牲にしているのか?」に登壇します。
イベント概要はこちら👉https://note.com/kankanbou_e/n/n12c637cabd75
「現地」のほか、配信でもご視聴いただけます。いずれも要事前申込(詳細は上掲ウェブサイトご参照)。
 

🍉7/21(日):IAMAS情報科学芸術大学院大学)のOPEN HOUSEにちょこっとお邪魔し、「毒プロ(現代社会における〈毒〉の重要性プロジェクト)」のお話をします。

IAMAS OPEN HOUSEウェブページ👉https://www.iamas.ac.jp/openhouse/

田中純教授退職記念パーティでのスピーチ

2024年3月25日、田中純教授 最終講義後の記念パーティでスピーチさせていただいたときの草稿。自分自身の研究者・大学人としてのスタンスを確認するという意味でも、こちらに残しておこうと思う。

☆ ☆ ☆

田中純先生

ご退職、おめでとうございます。今までのコマバでのご奮闘に、そして私たちを導き、育て、ときにしばき上げてくださったことに、改めて敬意と感謝を申し上げます。今日は田中先生の指導学生のなかでも「不肖の弟子」の立場から、拙い言葉をお送りしたいと思います。

私は修士課程からコマバの表象文化論専攻に飛び込みました。当初私が考えていた研究テーマは「身体とファッション」でしたが、それ以上に、「なにか破壊的に面白い知的スリルのある場に身を置き、出来ることなら自分もそれを創り出したい」と考えていました。その「破壊的に面白い知」を当時のコマバで担っていた一人が、当時はまだ「青年将校」だった田中先生でした。

修士課程のときの指導教員、それから博士課程進学後、当初の指導教員だった松浦寿輝先生のご退職後に再度指導教員になっていただいたのが、田中先生です。田中先生の他の指導学生たちが、代々言わなくてもきちんとできる「出来杉英才」くんタイプであったのに対し、私はだいぶ先生を手こずらせたと思います。投げ出すことなく、根気強く真摯に指導をしてくださったこと、何よりも日々紡ぎ出すテクストにおいて、圧倒的な「お手本」を示してくださったことへの感謝は、どれだけ言葉を尽くしても足りません。

私が参加した田中先生の最初の授業は、岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を精読する演習でした。第一印象として「苦虫を噛み潰したような」という慣用句が頭の中に思い浮かびました。大学教員が軒並み怖かった時代ですが、田中先生はとりわけ「怖い」先生として有名でした。しかし、その「怖さ」の背後には、学問と思考に対する徹底した真摯さと、学生も対等の存在として扱い、真剣勝負を求める誠実さがあることは、すぐに分かりました。テクストであれ人間であれ、対象に向き合うときに透徹して峻厳かつ誠実な方なのだと受け止めました。ですから、「怖い、厳しい」指導でも、抑圧的と感じたことはありませんでしたし、先生の何事にも真摯で峻厳な態度は、怠惰な自分を戒める超自我?として、また研究者のロールモデルとして、常に私の中にあります。

最初に出会った田中先生のご著作は、『都市表象分析I』だったと思います。これはその後の私の思考を筋道づけた一冊となりました。それとほぼ同時に、(おそらく新書館から刊行されていた『ファッション学のすべて』だったのではないかと思うのですが)田中先生がデヴィッド・ボウイボーイ・ジョージのファッションを論じた短いテクストを読む機会もありました。当時はその振り幅の広さと、発想の闊達さを愉快に感じると同時に、自分が興味を惹かれつつも、知的な思考でとらえることは難しいと思い込んでいた対象に、このようなアプローチと言語化が可能なのか!と眼を開かされました。その後も、田中先生は次々と、私(たち)の前に新しい世界を、そして新しい思考の地平を、切り開き見せてくれました。それは知的興奮に満ちた経験でした。

私は研究対象も、また職業的なキャリア形成も、はたから見れば紆余曲折、とっ散らかった道のりを辿ってきたように見えるかもしれませんが、実はその折々で、田中先生が自分の先を歩いていることに気づくことがよくありました。研究テーマもそうですが、その背景にある関心や個人的な嗜好や愛好の対象、ある種の気質などです。そのことに心強い思いをし、また導かれてきました。

皆さまもご存知の通り、田中先生は、信念の人であり、行動の人であり、そして結果を深く刻みつけることのできる方です。2000年代半ばに、まずは学生たちの研究発表の場としての「表象コロキアム」を立ち上げ、さらには全国規模の学会組織としての表象文化論学会が設立される最初のアクションを起こされたのも、田中先生でした。表象文化論学会は現在に至るまで、皆で共に人文知の最前線を切り開く興奮と緊張感に満ちた場であり続けていますが、同時にまた、この学会によって、研究者としてのキャリア開拓という点で救われた院生・若手も多いはずです。その後も、学生たちが自主的に企画を考案し、雑誌の特集をつくりあげる機会などを提供してくださいました(メディアデザイン研究所発行の『SITE ZERO』などです)。

最近は勤務先の大学でも、中間管理職的なマネジメントを任されることが増えてきました。自身も一定の権力と裁量を与えられつつ、より上位の権力をチェックする使命も引き受けている――そのような立ち位置のなかで、ときには「これはおかしい」という出来事が起こることもあります。声をあげることには、一定のリスクも少なからぬコストも伴う。そんなときに私を勇気づけ、取るべき行動へと促してくれたのが、先般の総長戦の際に田中先生が示された「大学で培われてきた民主主義的文化を守る」という信念に基づき、事態を変えるべく「闘う」という毅然とした振る舞いでした。

自分の興味関心の赴くままに脇道にそれ、勝手な道を歩き、しかしふと気づくと、自分が目指すべき方向へと向かって、先を歩いていた田中先生に気づく。ときには師と同じ方向を見て、語り合いながらともに歩く。田中先生との学術を通した師弟関係はこのようなものでした。若気の至りゆえの無謀さで、あまり深く考えずに飛び込んだ「コマバ表象」という場で、田中先生に出会えたことは、私の人生で最大の僥倖であったと思います。

最後に。田中先生をはじめ、ベンヤミンの専門家がお揃いのところで申し上げるのは口幅ったいのですが、やはり田中先生に宛てて贈りたい言葉があります。ベンヤミンが友人ヘルベルト・ペルモーレに宛てた手紙の中の、よく知られた一節です。――夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。 

ご清聴どうもありがとうございました。