テクストの地霊(ゲニウス・ロキ)に触れる

シュルレアリストのパリ・ガイド

シュルレアリストのパリ・ガイド

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アンドレ・ブルトンは、[…]パリの街路における偶然の出会い、いわゆる客観的偶然が起こり得る雰囲気のようなものを《偶発的なものの息づかい=Le vent de l'éventuel》と巧みに表現している。[…]歩いているその街路、そこから見える建物や光景、その他諸々のものが、過去の無数の歴史的事象と絡み合い、そこに宿る《地霊》なるものが、集団的無意識の記憶を不意に呼び覚まして、見えない気流に導かれるかのように、未知なるものに遭遇させる、そういった仕掛けがパリに宿っていると彼らは感じていたに相違ない。

(上掲書、10ページ。)

パリはその象徴性があまりに特殊な都市なので、安易に他の土地に敷衍することはできないかもしれないが、「地霊(ゲニウス・ロキ)」という概念は、場所の記憶、さらには「テクストの中に埋め込まれた場所の記憶」を考えるうえで、やはり一つの支柱となるものだと思う。私が例えば「文学散歩」という企画で捉えてみたかったのも、こういう「地霊との、向こうから偶然にやってくるような、突然憑依されるかのような出会い」の機会である。

 

つまり本書は、こうしたパリを、かつてシュルレアリストたちが歩いたように、紙面で跡をたどることによって少しでも追体験し、幻視のパリ散歩に読者を誘おうというわけである。

(同上)

この書は、テクスト内に体現された都市の経験を、ただ解説するのではなくて、元のテクストとは異なる書籍を読む経験において、再現・追体験を可能にしようという試みと理解した。

 

土地の精霊としてのゲニウス・ロキに加えて、「テクストという空間の中に埋め込まれたゲニウス・ロキ」のようなものも構想しうるのではないだろうか、とふと考えた。

夜をめぐる断想

夜間の彷徨は、世界がその力を弱め、遠ざかってゆく時にさまよい歩く性癖は、さらには夜間に実直に営まねばならぬような職業すら、猜疑を呼び起すものである。眼を開けたまま眠ることは、ひとつの異例であって、象徴的な意味では、共通の意識が認容しない底のことがらを指し示すのである。よく眠らない人々は、常に多かれ少なかれ良俗に悖る者のように見える。そうした人々は何をするのであろうか? 彼らは夜をして現存せしめるのだ。

モーリス・ブランショ「眠り 夜」、『文学空間』粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社1886年、378ページ。)

タブッキ『インド夜想曲』の冒頭でも引用されている、有名な一節。日本語訳のみでは意味を取りづらい部分があるので、ここは原文を探そう……

ちなみに現代思潮社からの邦訳は、現在は「オンデマンド版」として刊行されているらしい。

メモランダム

 

宮川淳子はファッション誌は十八世紀フランスにはじまると述べているが、日本で小袖雛形本が出版されるのは十七世紀のことだ。小袖雛形本を雑誌や定期刊行物といっていいかどうかは定かではないが、最新モードのカタログ本ではあるので、少なくともファッション・メディアと呼ぶことはできるだろう。江戸時代の日本には欧米に先駆けて、貴族だけでなく町人衆を巻き込んだファッション・システムがあり、そこに印刷メディアが果たした役割は看過できない。そう考えると、日本のファッション・メディア史もまた新たな視点から編成することができそうだ。

(成美弘至「新しいファッション・メディア研究に向けて」、日本記号学会編『叢書セミオトポス14 転生するモード:デジタルメディア時代のファッション』新曜社、2019年、60ページ。)

※同ページ脚注7によれば、「小袖雛形本」とは江戸時代に出版された着物の模様カタログで、呉服屋が顧客に見せ注文を取るために出版したもの。17世紀から19世紀にかけて、120種以上出版されたという。

 

いわゆる「ファッション論」の文脈では、前近代の日本の出版文化はなかなか俎上にのぼりづらいのではないだろうか?(おそらく、研究者の「生息範囲」が完全に異なってしまっているのでは?) そういう観点からも、この指摘は面白い。ただし、江戸時代の文化研究という領域では、「出版メディア研究」は一時期かなり盛んだっただろうから、視点を変えると「今さらそれに驚くの?」という感じなのかもしれない。

それはともかく、せっかく服飾系の学科も擁する大学の日本文学文化学科に所属しているのだから、西欧18世紀以降のファッションプレートや初期ファッション雑誌と江戸時代の小袖雛形本を比較しつつ展示する、みたいな企画を、学内ミュージアムか図書館で開催しても面白いんじゃないかと思っている。

小袖雛形本も含めた江戸時代のファッション(服飾の大衆的な流行)とメディアについて、ひとまず入門になりそうな書籍を見つけたので、さっそく注文。

 

個人ブログであるが、上掲書籍も含め非常に詳しい記述のなされているものを見つけたので、メモとしてリンクしておく(内容についてはまだ吟味していない)。

「着物ファッションと買い物のアルバム日記 part2」より
「ファッションは西欧社会で生まれた概念?江戸時代の小袖が西洋に先駆けてモードを発展させていたのは本当か?(前編)」:http://arimatunarumi.blog.fc2.com/blog-entry-1049.html
「ファッションは西洋社会で生まれた概念?江戸時代の小袖が西洋に先駆けてモードを作っていたのは本当か?(中編)」:http://arimatunarumi.blog.fc2.com/blog-entry-1050.html

表象文化論学会第17回大会で「ままならない身体」パネルを実施します(7/9(日))

2023年7月8日(土)・9日(日)に開催される表象文化論学会第17回大会(東京大学駒場キャンパス)にて、「「ままならない身体」をめぐる思考と実践」と題したパネルを実施します(小澤は企画と当日の司会を務めます)。一部に来場者参加型のワークショップも取り入れました! ぜひご来聴、ご体感ください。

 

■大会ウェブページ:1日目のシンポジウム・パフォーマンスをはじめ、今回も面白い企画がてんこ盛りです!

www.repre.org

■「「ままならない身体」をめぐる思考と実践」パネル:7/9(日)16:30-18:30(午後2)、Komcee East 2階 K212

・自己の身体に対する解像度を上げる──大野慶人の舞踏の稽古/宮川麻理子(立教大学
・不/自由なダンス──老いを巡るダンスドラマトゥルギー/中島那奈子(ダンスドラマトゥルク)online
・「なりきる」から始まる、自身の表現機会/小川千尋東京経営短期大学
【コメンテイター】外山紀久子(埼玉大学
【司会】小澤京子(和洋女子大学

www.repre.org

 

「パネル概要」欄は600字に収める必要があり、また当日も司会者がくだくだしく説明している時間はないので、ここに私がこのパネルを構想するに至った前提を記しておきます。

■パネル概要(上掲パネルページにも掲載されているもの)

 私たちの身体は、しばしば意志による統制や管理を逃れるし、また往々にして一般化・標準化された規範からは外れている。幼年期の身体、病(怪我や障がいを含め)の身体、さらには老いを迎えた身体は、より意志や規範をすり抜けてしまうことが多いだろう。本パネルでは、このままならない身体、不自由な身体に対して、芸術表現がもたらしうる効果を、実践の場から検討する。
 本パネルでは、3名がそれぞれの立場から、ワークショップも含む研究発表を行う。宮川は、大野慶人による舞踏稽古が変容・生成させる身体の内部図式を、中島は、歳を重ねるダンサーの身体をめぐる実践的思考と、「老い」がもたらす共時的・通時的な繋がりの可能性を、小川は、幼年期の「模倣する身体」の取り戻しによる自己の認識や解放を提示する。そのうえで、芸術の身体性に注目し、「ムーシケー型アート」と自己治癒という側面から捉える美学研究者・外山がコメントを行う。ここからは、自己の身体の捉えにくさ、不確かさと、それをめぐる受容や確認、あるいは認識変容のプロセスが浮かび上がってくるであろう。
 本パネルは、身体をめぐる思考と実践のオルタナティヴとして、「規範的」で「完全」な身体やその動きから外れ、こぼれ落ちるものを掬い取る試みである。同時に、卓越化や権力、制度化に絡め取られた「芸術」の隙間や外部に、身体を用いた芸術活動から生まれる、自己確認や自己変容という契機を探るものでもある。

■このパネル企画に至った前提(企画者の個人的な考え)

・旧世紀の日本の「体育」教育に典型的だった「身体の規律訓練(M.フーコーのいうディシプリン)」や「集団の管理」という性質=数値的な「卓越」の競い合い、整列、前へ倣え……
→このような規律訓練や管理からこぼれ落ちてしまう個別の、また個々の状況下での「身体」のあり方に注目したい。

・昨今の「規範から外れた身体性」へ向けられる「迷惑」という視線への懐疑。
例えば、幼児連れの客や知的・精神障がい者の公共の場での言動を、「迷惑」として糾弾する(SNSに特有の?)傾向が強まっている背後には、「公共の場でのふるまいの規範」から外れるような身体性に対して、「大人かつ健常者」の側が寛容度ゼロになっていることがあるのではないか。

・「フェムテック」なども含めた医療技術が、「自らの身体に関する個人の主体的選択(my body my choice)」を可能にする一方で、(「生産性」のような全体主義的な理念に合致するための)「自己管理」という規範にも絡め取られていくことへの不安。
さらには、自分の身体を自分で完全に選択や支配できるというのは、幻想ではないかという懐疑(個人(特に女性)の身体が国家や家父長や宗教的権力や共同体の規範に服従するものではない、という意味でのmy body my choiceには賛同するとしても)。

・近代以降、現在に至るまでのさまざまな環境デザインのあり方(例えば都市のインフラ設計、建物内の設備設計など)が、成人、男性、若くて健康な健常者、マジョリティ民族(西洋圏であれば白人)、中産階級以上の視点からなされており、そこから外れる身体を持った者(こども、女性(妊婦や乳幼児連れを含む)、傷病や障がいを抱える者、老人、マイノリティ民族、ホームレス状態の人々…)にとっては使いづらい、アクセスできないことについて、近年では特に問題意識が高まっている(例:都市と都市文化の男性視点を告発するレスリー・カーンの『フェミニスト・シティ』2020年。邦訳:https://www.shobunsha.co.jp/?p=7246)。
これも、「集団的な規範から排除されがちな「ままならない身体性」」のテーマ系に位置づけられるはず。

・(「大学」という場で研究・教育される範囲での)「芸術/アート」には、いまだ「制度内で権威づけられた卓越性」への志向が顕著であることへの懐疑。すでに美術史が解明してきたように、ある種の「芸術」のあり方は、権力や権威主義ヒエラルキーと直結する、抑圧的なものになりやすい。
→このような抑圧や閉塞感を打破する可能性として、(すでに大流行し、陳腐化しつつある用語ではあるが)「《ケア》としての芸術/アート」という発想があるはず。

・そもそも論として、「主体的な意志」という西洋近代的(?)な発想のはらむ息苦しさへの懐疑。「自己の外へと出たい」という(個人的な)願望。
→外山紀久子氏のいう「自己表現ではなく自己変容としてのアート」という発想への共感。

・上記のようなさまざまな疑問を念頭に置きつつ、規律訓練された、若くて健常な、主体の意志で制御できる「大人(壮年)の身体」イメージからはこぼれ落ちるものとして、「こども的身体」、「老いる身体」、「病(怪我、障がいも含む)の身体」、「自分の意志による主体的コントロールを外れてしまう身体(「意に反して」動いたり動かなかったりする)」、つまり「ままならない身体」を、「頭の中で」「言葉を使って」だけではない方法で、あらためてとらえ直したい。

Cf. 小澤個人の専門に絡めた関心=啓蒙主義時代の身体の管理・規律訓練と、そこから逸脱する身体との葛藤・相克
「身体の効率的な規律訓練と管理のしくみ」という発想が生まれ、制度化されはじめたのが西欧の18世紀後半〜19世紀(パノプティコン=一望監視形式の監獄、公教育制度下での学校、工場、国家による軍隊など)。18世紀後半のマルキ・ド・サドによる「性的逸脱・放蕩(リベルティナージュ)」も、実はこの「規律訓練」の発想が組み込まれている(勤勉な訓練として性的な逸脱行為を「みんなで協働して」実践する、規則に基づくディシプリンへの偏執的なこだわりなど)。
このような「身体」のイメージからこぼれ落ちるものとして、たとえばディドロの小説『運命論者ジャックとその主人』における「歩行」があるのではないか。これは、小姓のジャックとその主人の旅の道中を描いた、二人の会話と客観視点での「地の文」から成るテクストである。ジャックは膝を怪我しており、うまく歩くことができない。
ディドロ自身、若い頃から老年まで毎日の散歩を日課としており、彼の執筆においても、「歩くこと」は重要な要素である。例えば芸術批評である『サロン評』では、彼はヴェルネ作の風景画連作を、「絵の中を、ガイド役と対話を交わしながら旅し、歩く人物」の視点に仮託しつつ描写し、その評価を語っている。つまりここでは、「歩くこと」と「見る/観察する」ことと「思考すること/語ること」の三項が、互いにシンクロしながら展開している。ディドロの「歩行=語り」には、一般に理性や言語(=「ロゴス」の領域)がそうだと考えられているような「リニア(連続した直線的)」な運動ではなく、迂回路や蛇行、眠りと夢のような脇道への逸脱が含まれている。このような、「効率的でリニアな歩行」からの逸脱である「うまく歩けないこと」(≒うまく語れないこと、物語の進行が乱れること)がさらに強調されているのが、『運命論者ジャック〜』ではないか、という仮説。

エゴン・シーレ:拷問を受ける肉体

シーレとロダンの連関に最初に着目したのはウェルナー・ホフマンであろうが[…]はじめてムードンのロダンのアトリエを訪れたときの、ガラスのケースに収められていた人体の断片のかずかずが唐突に視界に飛び込んできたのは、強い衝撃だった。肉体の細分化、フラグメント。残念ながら、ぼくらは指や手や足首を、独立したフォルムとして眺めることが稀なのだが、ロダンの石膏の断片の前では、一本の指にも脚があり胴があり、乳房にも眼があり頭があるのを直感し、戦慄的であった。シーレはこのことも知っていたのである。肉体の各部分は主たる部分に隷属して生きているのではなく、細部がふるえおののいて、はじめて全体が有機的に動くのを。線はけっして消滅することがないのだ。肉眼で見えないシーレの線はきっと皮下を走っているので、線はふたたび皮膚を破って急激に浮上する。

坂崎乙郎エゴン・シーレ:二重の自画像』岩波書店1984年、142ページ。)

 

 

2022年度前半に刊行されたもの

だいぶアナクロニックになってしまったものもありますが、2022年前半に刊行された拙稿です。

 

蘆田裕史・藤嶋陽子・宮脇千絵編著『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』フィルムアート社、2022年3月。

私は「第1部 理論編」の「7. 身体」の項目を執筆いたしました。

フィルムアート社の紹介ウェブページ:

filmart.co.jp

 

 

国立歴史民俗博物館編『REKIHAKU 特集・人工知能の現代史』文学通信、2022年6月。

私はコラム「人工知能をめぐるジェンダーの問題 AIはだれの顔をしているのか? 」を寄稿しています。AIが「人間的」なインタフェースを搭載するとき、またAIがフィクションのなかで表象されるときのジェンダーの問題に言及いたしました。

日本知能情報ファジィ学会誌『知能と情報』2018年12月号に寄稿した、「フィクションにおけるテクノロジーの表象とジェンダー」(https://doi.org/10.3156/jsoft.30.6_308)のアップデート&ダイジェスト版です。

 

 

短歌ムック『ねむらない樹』第9号(書肆侃侃房)の「小特集:左川ちか」に、短いエッセイを寄稿いたしました。

 「真夜中の純粋愉楽読書」にふさわしい彼女の詩の魅力について、植物の生命力と植物への変貌、触れることの両義性、鉱物性といったテーマから書いております。

書肆侃侃房の紹介ウェブページ:

www.kankanbou.com

 

 

『群像』2022年9月号に、随筆「小さな部屋についての思索」を寄稿いたしました。

東京芸術祭 2022シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

表象文化論学会MLで東京芸術祭 2022シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」オンライン配信の存在を知り、さっそく視聴した。

www.youtube.com

Cf. 東京芸術祭ウェブサイト上のシンポジウム紹介ページ:

tokyo-festival.jpこの数年間で体感していたことに、さまざまな実例と厳密な言語が与えられ、一気に遠く高い思考へと到達できた感じがある。

「顔の見えない」状態(Zoomのビデオオフ参加含め)について卒論で手掛けたいという3年次学生がいたので、さっそくプレゼミのLMSで共有した。別の授業(「解釈理論」)では、チェン氏の言うとおり「道具(技術)によって世界の見え方が変わる」ことも紹介しているので、これにも盛り込んでおきたい。

今年10月から発足した大学コンソーシアム助成共同研究のテーマが「Art and Culture for Convivial Society」なのだが、テクノロジーを通じた/テクノロジーとの「共生」についても考える必要がある、ということにも気付かされた。もっとも、東京芸術祭シンポでの「共に在る」はco-presenceであって、イリイチのいうcon-viviality(自立共生)と厳密にイコールであるかは、私の知識では分からないが……
なお、テクノロジーと(の)コンヴィヴィアリティというテーマでは、ひとまずウェブ検索でこのような情報を見つけた。
・緒方壽人氏ウェブサイト「コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ」:

convivial.tech・「道具としてのテクノロジーから人と共に生きるコンヴィヴィアル・テクノロジーへ」(緒方壽人氏へのインタヴュー):

furue.ilab.ntt.co.jp

ちなみに、シンポジウム内でドミニク・チェン氏が言及していた論文には、以下のリンク先からアクセスできた。
・A Systematic Review of Social Presence (2018):

www.frontiersin.org・Analysis and Design of Social Presence in a Computer-Mediated Communication System (2021):

www.frontiersin.org