夕方から三菱一号館美術館エドワード・バーン=ジョーンズ展(http://mimt.jp/bj/)へ。
私にとっては、「知的な分析や批評をしやすい(「問い」を立てやすい)」タイプの芸術家と、「幼心にとって好き」なタイプとがあるのだが、バーン=ジョーンズは後者である。メランコリックで静謐な色調と、叙情的で幻想的、どこか甘美な退嬰性を湛えた作風が美しい。
以下、気付いたことを箇条書き。

バーン=ジョーンズは割と繊細な筆致の画家という印象があったが、意外と粗い筆跡の作品も多い。
デッサン作品では、白チョークの使い方が絶妙。金属製鎧の硬質で滑らかな光沢も、鳥の羽のふわふわした軽やかさも、同じ白チョークを使って表現してしまうところがすごい。
瑠璃色(この画家のいちばん特徴的な色だと思う)と肉色に近いピンクの組合せが美しい。

アンドロジナスな風貌の人物を描く画家たちには、男性を女性的に描く者(ギュスターヴ・モローなど)と、女性を男性的に描く者(高畠華宵など)がいるが、バーン=ジョーンズは後者の系譜である。青年も乙女も、逞しい顎と深く切れ込んだ下唇、それからがっしりと直線的な肩と腕を共有している。

この画家の人物表現は妙に通俗的になることもあって、ピュグマリオン伝説を描いた連作などはその一例。大理石の人物像の硬質なエロスではなくて、妙に生々しいメロドラマっぽさが出てしまっている。

この画家の衣紋表現には複数のヴァリエーションがあることに気付く。フォルチュニィのドレスのドレープのように細かく繊細なものと、現実の布ではなく大理石彫刻の襞を写し取ったのではないかと思われる、不思議と硬質なものとがある。

この展覧会の目玉の一つである《大海蛇を退治するペルセウス》の、身体を複雑に回転させつつ全体としては斜めからみた円形を描く大蛇は、《運命の車輪》で女神がもつ巨大な車輪と同じ構図だということにも気付く。静謐なイメージのある画家だが、構図や身振り表現は以外とダイナミックである。
  
また、全体的に画面構成の密度が高いというか、とりわけ人物を「みちみち」にフレーム内に詰め込む傾向がある。一種の空隙恐怖症か。

鏡の表現も独特で、凸面のカーヴが急すぎてほとんど半球状になっている。このため鏡の表面に映る像が、中空のガラスのドームに閉じ込められたミニチュア世界のようにも見えるから面白い。(《天地創造の日々》連作の、ガラスの球体に入った地上の姿を連想させられる。)
    

私のお気に入りの《天地創造の日々》や《黄金の階段》は展示されておらず残念。その代わり、「いばら姫」の連作が来ていて、中でも《眠り姫》には目を奪われる。城内の一室ではなく、戸外にしつらえられた舞台上での情景にも見える。

そういえば「眠る(あるいは死せる)乙女」は、19世紀後半のイギリス絵画に頻繁に登場するように思われる。ジョージ・フレデリック・ワッツの《希望》、ジョン・エヴァレット・ミレイの《オフィーリア》をはじめとする「水上を漂う死せる乙女」の系譜など……もっともワッツには、エンデュミオンというギリシア神話に登場する「永遠の眠りを眠る美青年」を描いた作品もある。象徴主義と「眠り」というテーマが結合しやすかった、ということなのだろうか。

バーン=ジョーンズの図案をモリス商会で織り上げたという、《東方三博士の礼拝》タピスリーもよかった。色の繊細なグラデーションを、糸を変えつつ織りで表現する技術に感嘆する。大天使ガブリエルのもつ星の輝きと、フィレンツェルネサンス風の草花の表現が特に良い。カタログ収録の図版では、暗く艶の無いトーンになってしまっていて残念。

三菱一号館は小さな部屋が3つの階に渡って分散しており、この構造が展覧会構成にとって不利になることも有利になることもあると思うが、今回は迷宮をぐるぐると回っているような感覚と、バーン=ジョーンズの作品世界のもつ幻想性が巧く噛み合っていたような気がする。


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今回気になったのは、展覧会会場でのちょっとしたノイズの煩さ(夏休みで来場者が多かったこともあるだろう)。BGMがまったく無い室内だと、ちょっとした囁き声や衣擦れでも聴覚に障るものだと気付く。三菱一号館は当時の構造を再現したのだから、靴音が異様に響く床なのはもう仕方がないと思うが。まあBGMを流したら流したで苦情が来そうだし、選曲も難しいだろうな。


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アルファベットとしての身振り「R」。
ショール状の薄布が翻って、身体と相俟って「R」や「B」になっている例は、古代ギリシアレリーフ以降「ニンファ」表現の定型だが、この撒種するフローラもその系譜だろう。