3月29日のパリ日記

パリで迎える最後の日曜日、今日は自分の好きなことだけをしようと決めて、まずはリュクサンブール美術館で開催中の「両リッピ(父フィリッポと子フィリッピーノ、ルネサンス期のプラートで活躍した画家)」展へ。

街中にポスターが貼られ、入場料が11ユーロ、オーディオガイドが4.5ユーロもした割には、展示数が少なくてがっかりする。フィリッポ・リッピの魅力は、描線と中間色の美しさにあると思うのだが、それを堪能できる作品もあまり来ていなかった。キリスト降誕の場面を描いた作品で、「素朴」な馬小屋の表現が、18世紀の建築理論家ロージェの書の口絵にある「原始の小屋」とそっくりなことに気付いたのが収穫だろうか?リッピ展は(そもそもリュクサンブール美術館の運営方針なのだろう)全体的に「ぼったくり」で、売店では過去の展覧会で使用した案内ハガキが、1.2ユーロで売られているほど。展覧会開催コストと入場者数とのバランスとか、政府からの援助額とか、いろいろと裏事情はあるのだろうが、単なる「来館者」としては、ついついルーヴルなどと比べて愚痴のひとつも出てしまう。

引き続き、Val-de-Grace教会のフラ・アンジェリコ展へ。5ユーロの入場料を徴求するにも関わらず、展示されているのはすべてフラ・アンジェリコによる聖フランチェスコ伝連作の原寸大カラーコピー。絵画作品を見せるというよりも、教会を訪れる信者に聖フランチェスコの生涯を分かり易く伝えることに主眼が置かれているらしい。説明パネルは充実しているのだが、やはりミリ単位の細部は潰れているし、フレスコ画特有の表層の質感はまったく再現できていないし、「絵画」を観ようと赴いた者にとっては肩透かしの展覧会だった。「フレスコ壁画」の特殊性(タブローのように、本来所属する空間を離れて移動するということができない)や、キリスト教絵画が本来有していた実践的機能(=民衆教化)を考えるきっかけにはなったけれど。

Val-de-Grace教会の建築は、外観はルネサンス式なのに、祭壇はうねる蛇のようなバロック(ヴァティカンのサンピエトロの縮小版)なのが面白い教会だった。天井画や天井レリーフも、形態が空間を埋め尽くす勢いで、見ていて飽きない。眼が蟻になって這い回っているような錯覚を起こす。
      

その後はカルナヴァレ美術館に行き、先日写真を取り忘れてしまったナポレオンやシャルル10世(王政復古期の国王)の肖像画を鑑賞。権力やその正当性を如何に表象するか(版図を示す地図の上に手を置くナポレオン、フランス国王のアトリビュートである白貂のマントを羽織りつつも、近代人らしく短髪のシャルル10世)、非常に分かり易い例で面白い。
  

6時を過ぎてもまだ明るいので、お上りさんらしく凱旋門へ。パリのベタな観光名所にして、「美しい新古典主義」(磯崎新)の体現であるこの構築物が、実際には「戦争の歴史」のモニュメントであることを実感する。ナポレオン戦争から、二度の大戦、そして朝鮮戦争アルジェリア戦争、仏領インドシナで戦没した「英霊」たちが顕彰されている。フランソワ・リュード(出身地であるディジョンにも記念美術館がある)による丸彫りレリーフラ・マルセイエーズ」は、古代風の鎧兜を着けた兵士たちと、勇ましく武装した「自由」の擬人像。そこここに様々な戦争や土地奪還を記念するレリーフが埋め込まれていて、まるで上着が勲章で埋め尽くされた軍人みたいだ。日本にいると、「新古典主義」と言うのは美術様式の一つに過ぎないように思えるが、実際には強大な権力と結び付いたスタイルだったのだと実感する。
      
  

その後、反対側に見えた「新凱旋門」を目指して歩く。凱旋門が過剰な政治性を「装飾」としてくっ付けているのに対して、デファンス地区のモダニズム建築を代表する「新凱旋門」の表面からは、装飾も意味も削ぎ落とされている。零度のモニュメント、と言いうるかもしれない。戦争を記念することが凄まじいタブーとなっている日本の人間としては、凱旋門歴史観になんだか疲労を覚えたので、「何も無い」新凱旋門は新鮮だった。夕陽の最後の桃色が、白いコンクリートに映えて美しい。