無事にソウルでの国際美学会から無事に帰国。成績登録期限が1週間後と気忙しいスケジュールだが、なにか「一息ついた」感じが欲しくて、国立新美術館ルノワール展(http://renoir.exhn.jp)へ。


複製されたイメージでよく知られている画家だが(むしろだからこそ?)、展示室の中で作品の現物を眼の前にするという経験の中に、さまざまな発見があった。絵具(物質)と彩色と「絵画の膚」ということについて、久しぶりに考える。
ルノワールと言えば、世紀末型のファム・ファタルとは対極的な、陽光の下に輝く、健康的で一点の翳りもその翳りゆえの淫靡さも無い、素朴な農婦型の女性の裸体を描いたという印象が強いだろう。作品の実物を観ると、この「ルノワール的」な裸体の特徴は、体型や造作(線描の領域に属する)というより、膚の色合いと質感を表現するための彩色や筆触に由来するように思える。
なかでも、説明パネルにあった、ルノワールは女性の膚を描くための習作として、薔薇の花をよく描いたというエピソードに興味を惹かれた。薔薇の花びらと若い女の皮膚に共通する、透ける血色のようなピンク、不透明でマットな質感、光を柔らかく受け止め、凸部では反射するような表面。


作品と自分との距離をいろいろと変えては眺めてみるという遊戯が、ルノワールの場合はことのほか楽しい。特に今回の目玉展示でもある《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》は、近寄ると分厚い絵具の斑の集合、少し顔を離すと水玉状の光のコントラストが強すぎて「はたけ」に罹ったよう、しかし遠くからは、初夏の陽光が木漏れ日となって踊る美しい午後の光景となる。
油絵の表面、絵具の盛り上がった部分が展示会場のライトを反射するために、真正面から見ようとすると一部が白く光って見えず、やや斜めにずれた位置から眺めると全体が見える、という展示品がいくつかあるのも、美術館経験として面白かった。展示環境が生み出す、偶発的なアナモルフォーズと言えるだろうか。


印象派以前のティツィアーノやベラスケスなどもそうだが、近寄って見るとこんなに筆致が粗いのに、ヴェルヴェットや絹や木綿のそれぞれ固有の質感を再現し、描き分けられていることに、いつも素朴に感動してしまう。