2024年3月25日、田中純教授 最終講義後の記念パーティでスピーチさせていただいたときの草稿。自分自身の研究者・大学人としてのスタンスを確認するという意味でも、こちらに残しておこうと思う。
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田中純先生
ご退職、おめでとうございます。今までのコマバでのご奮闘に、そして私たちを導き、育て、ときにしばき上げてくださったことに、改めて敬意と感謝を申し上げます。今日は田中先生の指導学生のなかでも「不肖の弟子」の立場から、拙い言葉をお送りしたいと思います。
私は修士課程からコマバの表象文化論専攻に飛び込みました。当初私が考えていた研究テーマは「身体とファッション」でしたが、それ以上に、「なにか破壊的に面白い知的スリルのある場に身を置き、出来ることなら自分もそれを創り出したい」と考えていました。その「破壊的に面白い知」を当時のコマバで担っていた一人が、当時はまだ「青年将校」だった田中先生でした。
修士課程のときの指導教員、それから博士課程進学後、当初の指導教員だった松浦寿輝先生のご退職後に再度指導教員になっていただいたのが、田中先生です。田中先生の他の指導学生たちが、代々言わなくてもきちんとできる「出来杉英才」くんタイプであったのに対し、私はだいぶ先生を手こずらせたと思います。投げ出すことなく、根気強く真摯に指導をしてくださったこと、何よりも日々紡ぎ出すテクストにおいて、圧倒的な「お手本」を示してくださったことへの感謝は、どれだけ言葉を尽くしても足りません。
私が参加した田中先生の最初の授業は、岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を精読する演習でした。第一印象として「苦虫を噛み潰したような」という慣用句が頭の中に思い浮かびました。大学教員が軒並み怖かった時代ですが、田中先生はとりわけ「怖い」先生として有名でした。しかし、その「怖さ」の背後には、学問と思考に対する徹底した真摯さと、学生も対等の存在として扱い、真剣勝負を求める誠実さがあることは、すぐに分かりました。テクストであれ人間であれ、対象に向き合うときに透徹して峻厳かつ誠実な方なのだと受け止めました。ですから、「怖い、厳しい」指導でも、抑圧的と感じたことはありませんでしたし、先生の何事にも真摯で峻厳な態度は、怠惰な自分を戒める超自我?として、また研究者のロールモデルとして、常に私の中にあります。
最初に出会った田中先生のご著作は、『都市表象分析I』だったと思います。これはその後の私の思考を筋道づけた一冊となりました。それとほぼ同時に、(おそらく新書館から刊行されていた『ファッション学のすべて』だったのではないかと思うのですが)田中先生がデヴィッド・ボウイとボーイ・ジョージのファッションを論じた短いテクストを読む機会もありました。当時はその振り幅の広さと、発想の闊達さを愉快に感じると同時に、自分が興味を惹かれつつも、知的な思考でとらえることは難しいと思い込んでいた対象に、このようなアプローチと言語化が可能なのか!と眼を開かされました。その後も、田中先生は次々と、私(たち)の前に新しい世界を、そして新しい思考の地平を、切り開き見せてくれました。それは知的興奮に満ちた経験でした。
私は研究対象も、また職業的なキャリア形成も、はたから見れば紆余曲折、とっ散らかった道のりを辿ってきたように見えるかもしれませんが、実はその折々で、田中先生が自分の先を歩いていることに気づくことがよくありました。研究テーマもそうですが、その背景にある関心や個人的な嗜好や愛好の対象、ある種の気質などです。そのことに心強い思いをし、また導かれてきました。
皆さまもご存知の通り、田中先生は、信念の人であり、行動の人であり、そして結果を深く刻みつけることのできる方です。2000年代半ばに、まずは学生たちの研究発表の場としての「表象コロキアム」を立ち上げ、さらには全国規模の学会組織としての表象文化論学会が設立される最初のアクションを起こされたのも、田中先生でした。表象文化論学会は現在に至るまで、皆で共に人文知の最前線を切り開く興奮と緊張感に満ちた場であり続けていますが、同時にまた、この学会によって、研究者としてのキャリア開拓という点で救われた院生・若手も多いはずです。その後も、学生たちが自主的に企画を考案し、雑誌の特集をつくりあげる機会などを提供してくださいました(メディアデザイン研究所発行の『SITE ZERO』などです)。
最近は勤務先の大学でも、中間管理職的なマネジメントを任されることが増えてきました。自身も一定の権力と裁量を与えられつつ、より上位の権力をチェックする使命も引き受けている――そのような立ち位置のなかで、ときには「これはおかしい」という出来事が起こることもあります。声をあげることには、一定のリスクも少なからぬコストも伴う。そんなときに私を勇気づけ、取るべき行動へと促してくれたのが、先般の総長戦の際に田中先生が示された「大学で培われてきた民主主義的文化を守る」という信念に基づき、事態を変えるべく「闘う」という毅然とした振る舞いでした。
自分の興味関心の赴くままに脇道にそれ、勝手な道を歩き、しかしふと気づくと、自分が目指すべき方向へと向かって、先を歩いていた田中先生に気づく。ときには師と同じ方向を見て、語り合いながらともに歩く。田中先生との学術を通した師弟関係はこのようなものでした。若気の至りゆえの無謀さで、あまり深く考えずに飛び込んだ「コマバ表象」という場で、田中先生に出会えたことは、私の人生で最大の僥倖であったと思います。
最後に。田中先生をはじめ、ベンヤミンの専門家がお揃いのところで申し上げるのは口幅ったいのですが、やはり田中先生に宛てて贈りたい言葉があります。ベンヤミンが友人ヘルベルト・ペルモーレに宛てた手紙の中の、よく知られた一節です。――夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。
ご清聴どうもありがとうございました。