探偵と文学散歩と「キャラ」概念

 

  

来年度からの仕事で急遽必要になって、横溝正史金田一耕助シリーズを読み始めた。
(小学校の工作で急にペットボトルが必要になるのと同じくらい、人生には「仕事で急に金田一が必要になる」瞬間が訪れるのだ。)

新青年』系の文学は概ね好きだと自認していたはずなのだが、横溝はうっかり通らないまま来てしまった。自分が好きだったのは「モダニズム都市とテクノロジー神経症めいた経験が出来させる怪奇と幻想」のようなものであり、横溝はそこから外れているように思えたのだろう(しかし、改めて作品を読んでみると、当初の「因循姑息な地方の怨念めいた伝承と名家の呪われた血筋」という先入主とは裏腹に、横溝も「近代的」な作家だったことが分かる)。

先日は、たまたま岡山大学で研究会(ディドロの『サロン評』翻訳を研究室に缶詰になって検討し合う会)が開催されたこともあり、その折に少し足を伸ばして、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』のロケーションともなっている真備町周辺(横溝正史疎開宅のある近辺)も訪れてみた。

横溝の文章は基本的に(もちろんよい意味で)分かり易くて説明的だし、描写も読んでいてはっきりとした視覚的イメージを結びやすい種類のものである。作品発表当時から現在に至るまで、数多くの映画化・TVドラマ化がなされてきたことにも、改めて納得がいく。三人称の全知の語り手という形式も、映像化に向いているのだろう。

また、金田一耕助はその強烈な外見をはじめとして、こんにちの言葉でいう「キャラ」概念に馴染みやすい人物造形であることにも気づいた。昨今では金田一耕助の「コスプレ」をして作品ゆかりの地点を巡るイベントも開催されているし、真備町を歩けば顔はめ看板、文学散歩マップ、溝口正史疎開宅の障子に映し出される金田一のシルエットなどなど、金田一耕助の「キャラ性」の強さを実感させられる事例があちこちに見つかる。これは、同じ「名探偵」である明智小五郎について明確なパブリックイメージが存在していないのとは、ずいぶん対照的だ(もちろんこのことは、作品内で描かれる明智の外貌が、時を経るにつれて刻々と変化していったことに拠るものだろう)。「金田一」を表すには、シルエットでも、あるいはチューリップ帽一つでも事足りてしまうが、同じことを「明智」でやるのはどだい無理だろう。

ただし、特徴的な作中人物の過剰な「記号化、キャラ化」や、ここ10年くらいで急速にビジネスと行政による「まちづくり」・「まちおこし」系の文脈で喧伝されるようになった「コンテンツ・ツーリズム」一辺倒の見方が、テクスト経験と場所の経験のいずれをも一面的で平坦なものにしてしまうおそれへの批評的な視点も、少なくとも学術の場にいる者であれば持っていて然るべきではないか。この辺りの論点については、「シャーロック・ホームズとコンテンツ・ツーリズム」周辺を掘ってみると、考えるための補助線がいろいろと見つかるのでは、という予感がしている。

ところで、探偵とは、微細な徴候や痕跡から推論に基づいて「謎解き」を行う者であると同時に(ベンヤミン、ギンズブルグ)、社会のなかの浮遊的な存在として描かれることも多い。後者の性質については、似た職能を担う警察が国家の権力組織に組み込まれた法の執行者であるのとは対照的だ。こういうところにも、「探偵」の魅力があるのだろうと思う。