ミッシェル・カルージュ『独身者の機械 未来のイヴ、さえも……』高山宏・森永徹訳、ありな書房、1991年。

目次
はじめに
序論:近代神話を探る」
1:偉大な機械愛好家と彼らの機械」
マルセル・デュシャンフランツ・カフカ
1975年のノート
レーモン・ルーセル
アルフレッド・ジャリ
ギヨーム・アポリネール
ジュール・ヴェルヌ
ヴィリエ・ド・リラダン
イレーヌ・イレレルランジェ
アドルフォ・ビオイ・カサーレス
ロートレアモン
エドガー・アラン・ポー


2:独身者の機械の精神屈折光学
独身者の機械の変換群


付記
マルセル・デュシャンからミッシェル・カルージュへの四通の手紙


評註
独身者の機械を含む主要作品の暫定的編年史
本書で分析した独身者の機械の一覧表

解題――永遠に新しいシュルレアリスムの実践

「身体の拡張」の一貫としてのポスト・ヒューマン論に接続可能な理論としても、また独身者の欲望を巡る問題系――窃視欲動、快楽に到達せずに中断される性交、反復されるマスターベーションの/妊娠不可能な女性身体の不毛さなど――を考察する上でも、礎となるであろう一冊。
以下は自分の今後の思考に役立ちそうな部分の引用もしくは要約。


デュシャン《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称大ガラス)とカフカ流刑地にて」

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カルージュの指摘によれば、上記二つの作品は歯車装置、工程、光学のいずれにおいてもパラレルな関係をなす。(p.48)
「機械の全般的な動きは上部がくだす指令で作動する」。(p.40)
性的なプロセスと結合した機械である。「独身」性と抑圧された窃視欲動(カルージュは「眼科医」というメタファーを頻繁に用いる)
・(とりわけデュシャン作品の)「歪んだガラス」(p.50)という性質に着目。向こう側にある客観的現実を透かし見せつつ、不透明性によってそれを歪形する(事実に対する主観的な障害となる)。
・独身(célibat, カルージュは男女双方を想定している):人間的感覚の喪失、異性との関与や交感の不可能性という性質をもつ。
・ガラス、カフカ『変身』の芋虫:存在の硬直化(「ガラス」という物質との共通性)。近代的なナルシス・コンプレックスと禁欲精神の顕われ=ザムザもまた「独身者の機械」である。


※ジャリ『超男性』

超男性 (白水Uブックス)

超男性 (白水Uブックス)

・列車との競争、性交渉の回数挑戦、電磁気装置を付けられた超男性の三場面に分節化される。「永久運動食」による(現代的術語で言うところの)エンハンスメント。「永久機関」への憧憬。
・列車と自転車との競争。ガラス(列車の窓ガラス)と高所から見下ろす女性、という「独身者機械」的テーマの現れ(デュシャンとの共通性)。生身の女性ではあるが、機械の歯車装置に組み込まれている。
・男女は競争/交通(transport)の間中並走しているが、衝突(媾合)には至ることがない。「女たちに対する男たちの勝利であり、そこでは「中断された性交」が言祝がれている」旨をカルージュは指摘する。(p.113)
・「超男性」であるリュランスの城で開催される、性交回数上限への挑戦。(カルージュは指摘していないが)この場面の舞台となる大広間は、空間構造が劇場に似ているという点で、サド『ソドム120日』に登場するシリング城の大広間と酷似している。上部はガラス張りの部屋であり(女たちが上部から覗くというテーマがここにも現れる)、下部には博士の覗き穴があり、中心には片眼鏡=蓄音機(キュクロプスのメタファー)がある。
・独身者の機械はエロティシズムがもたらす創造的な結果に対する拒否である。(p.117)妊娠という結末の否定。


ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ

未来のイヴ (創元ライブラリ)

未来のイヴ (創元ライブラリ)

・「書き込み/記録」のテーマ。「書き込まれた女」としてのアダリー。(空のメモリーとしてのアンドロイド、複製技術の問題としても捉えうる。)c.f.カフカ流刑地にて』の処刑機による書き込み。
・人造人間が内蔵する機械の「解剖学的」な記述に、大量の頁が割かれる(機械版の「メディチのヴィーナス」?)。機械を説明する際の精緻で冗長な描写を、カルージュはカフカデュシャンルーセルリラダンの共通点とするが、そもそも『百科全書』のディドロによる靴下編機の描写からして、この性質を帯びている。
・機械の花嫁であるアダリー自身も処女/独身者であり、それは「聖婚(性行為なき婚姻)」を志向している。
・「嘔吐」という契機。カフカの『流刑地』との共通項。独身者の機械の中で生起するエロティックなプロセスによって引き起こされる。


※「独身者の機械」展、1975年、ハロルド・ゼーマンによるキュレーション。
ミシェル・ド・セルトーによる寄稿「死ぬ術」。他者というエロティックな装置を欠いて、ひたすら「中断された性交」を反復する「独身者の機械」性を、現代のテクストに見出す。この論考も収めたド・セルトーの単行本Discourse on the Otherは、メディアやサイヴァネティクスも「独身者の機械」の延長として論じたもの。(訳者後書き、p.279)


c.f. ハラウェイの『サイボーグ・フェミニズム』と「独身者の機械」との異同は?

サイボーグ・フェミニズム

サイボーグ・フェミニズム