人形、機械、人造人間、人工生命の系譜

以下の書籍巻末に付された「人造美女編年史」を参考にしつつ加筆したものです

人造美女は可能か?

人造美女は可能か?

図版パワーポイント(便宜的に講義用資料を公開していますが、問題があるようなら取り止めます):https://www.dropbox.com/s/4875gsw584eoxqc/02-04_posthuman.pptx
オウィディウス『変身物語』よりピグマリオン伝説(古代):理想の女性としての人形に魂が吹き込まれ受肉する
・ヴォーカンソンのオートマタ「笛吹き人形」「タンバリンを叩く人形」「消化するアヒル」1737-38年
・ケンペレン「トルコ人」1769年:人間とチェス大戦をする人形でマリア・テレジアのために作られる。ウィーン、パリ、ドレスデンなどで興行、「考える人形」として人気を博す。19世紀に音楽家ヨハン・メルツェル所蔵となりヨーロッパ、アメリカで1818-1836年頃まで興行。ホフマン、ポーにも影響を与える。
・ホフマン『アウトマーテ』1814年:話す機械としての人形(「トルコ人」)の不気味さ
ホフマン『砂男』1817年:人形としての女性、ファム・ファタル
Cf. レオ・ドリーブ作曲『コッペリア』(バレエ)1867年、初演1870年(パリ、オペラ座):ホフマン『砂男』の翻案/オッフェンバックホフマン物語』(オペラ)1881年フロイト「不気味なもの」1919年
メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』1818年:モンスターとしての人造人間=独身者としての男性、屍体の継ぎ接ぎ(失敗したピグマリオン神話)、いわゆる「マッド・サイエンティストもの」の系譜、フランケンシュタイン・コンプレックスの典型
ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ1886年:「アンドロイド」(正確にはガイノイド)の理想の女性アダリ、失敗したピグマリオン伝説(ファム・ファタルとしての機械の花嫁)、最後にアダリは船中で焼失(『マノン・レスコー』の人形版とも言いうる?)
・ウェルズ『透明人間』1897年
Cf. 1895年にヴィルヘルム・レントゲンが「X線」を発見、翌年レントゲン撮影写真を公開
マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体》1912年【図】:連続性・時間性の可視化、機械的身体
・レーモン・ルーセルロクス・ソルス』1914年:「独身者の機械」の系譜
フランツ・カフカ流刑地にて』1919年【図】:「独身者の機械」の系譜
カレル・チャペック『R.U.R』1921年:「ロボット」の嚆矢
デュシャン《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》1923年
・フェルナン・レジェ、マルセル・デュシャン、D.マーフィー『バレエ・メカニック』(短篇映画)1924年 :運動する機械部品や人間の身体部位をクロースアップで撮影
1/2:https://www.youtube.com/watch?v=9SgsqmQJAq0
2/2:https://www.youtube.com/watch?v=tEBCJjQKoh0
・ジョージ・アンタイル「バレエ・メカニック」1926年:機械が踊るというコンセプトの楽曲(バレエ曲ではない)
フリッツ・ラングメトロポリス』1927年(ハルボウによる1926年の同名小説が原作):ファム・ファタルとしての人造美女マリア
ドレスデン衛生博覧会にて「ガラスの男」展示、1930年
・ジェイムズ・ホエール『フランケンシュタイン』(映画)1931年(アメリカ、ユニヴァーサル・ピクチャーズ)/ホエール『フランケンシュタインの花嫁』(映画)1935年
ブルーノ・ムナーリ「無用な機械(macchine inutili)」1933年(『ムナーリの機械』初版1942年)
ハンス・ベルメール『人形』(写真集)1934年:解剖学的サディズム、身体の分節化と位置の自由な組み替え、運動
ベルメール『人形遊び』(写真集)1934年
・ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス(Cybernetics)」の理論、1947年
ミシェル・カルージュ『独身者の機械』初版、1954年
星新一『ボッコちゃん』1961年:内面や知性は空虚な人造美女。典型的なファム・オブジェ観への皮肉。
フィリップ・K・ディック『パーキー・パットの日々』1963年:18歳の娘のまま歳をとらないガイノイド、パーキー・パットと、「人間と同じように成長」し妊娠3ヶ月だと発覚するコニー・コンパニオンの性能比べ。
ジャン=リュック・ゴダールアルファヴィル』1965年:コンピュータα60に支配された未来都市(パリでのロケ撮影)の感情を失った人間たち
スタンリー・キューブリックアーサー・C.クラーク2001年宇宙の旅』(映画、小説)1968年人工知能HAL9000(単眼のキュクロプスを思わせる形態、男声)は人間への反乱を企て最後に機能停止させられる
・フィリップ・K.ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』1968年:アンドロイドと人間との境界(記憶、感情、empathyの能力)を問う。タイトルには「無意識/言語」や「動物」の問題も内包されている?
ハラルド・ゼーマン(企画)「独身者の機械」展、1975年
フェデリコ・フェリーニ『カサノヴァ』(映画)1976年:希代のプレイボーイ、カサノヴァの人形とのダンスシーンあり
KRAFTWERK, The Man Machine,(アルバム)1978年
The Robots(1977):https://www.youtube.com/watch?v=VXa9tXcMhXQ
リドリー・スコット『エイリアン』1979年
リドリー・スコットブレードランナー』1982年
楳図かずおわたしは真悟』1982-86年:少年少女の「子供」として「意識」に目覚めた産業用ロボット「真悟」の、親探しの旅と「意識」としての拡張・進化。「真悟」は神を超越した存在として再生するが、最後はエネルギーと記憶を失い、最後に「アイ」の文字だけが残る。
ウィリアム・ギブスンニューロマンサー1984
・ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」1985年(『猿と女とサイボーグ』1991年に再録):男女の性差を前提とする生殖モデルからの脱却の可能性をサイボーグ(人間と機械の融合体)に見出す
ジェームズ・キャメロンエイリアン2』1986年
・クリストファー・ラングトン「人工生命(Artificial Life)」理論の提唱、1987年
桂正和電影少女』1989年〜(コミックス他メディアミックス):レコーダー内でヴィデオ・テープが回っている間だけ、画面から「ビデオ・ガール」が飛び出して現実の世界にやってくる(テクノロジーから生まれる女性形象)。思春期の悩める少年を主人公とする一種のマジカル・ガールフレンド物。
士郎正宗攻殻機動隊』(コミック)1991年〜:「法の執行者」としてのサイボーグ女性
川原由美子観用少女(プランツドール)』1992-2001年:ミルクと砂糖と持ち主の愛情が生きるための栄養素であり、愛情が欠ければ枯れてしまう(逆にミルクと砂糖以外のものを与えると「女」などに育ってしまう)「生きる人形」たちをめぐる物語。ファム・オブジェ幻想を日本における「少女のための少女趣味」の文脈(「少女漫画」)へと接ぎ木した作品。
デヴィッド・フィンチャーエイリアン3』1992年:エイリアンの胎児に寄生されるヒロイン、リプリー
押井守攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(アニメーション映画)1995年
庵野秀明新世紀エヴァンゲリオン』(アニメーション)1995年:ロボットとパイロットとのインターフェイスの「女性化」(感情的コミュニケーションによる操作、母子の絆)
あかほりさとるねぎしひろしセイバーマリオネット』シリーズ(小説、アニメーション)1995年
高尾滋『人形芝居』1996年〜:学習機能(人工知能)付きの人形たち。マスターアンドロイドと呼ばれる人形師もまた人形である。
・『ToHeart』(ヴィジュアルノベル/ノベル・ゲーム)1997年:メイドロボットとしてのアンドロイドが登場する(男性版と女性版あり、詳細設定はWikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/To_Heart#.E3.83.A1.E3.82.A4.E3.83.89.E3.83.AD.E3.83.9C)。試験的に「感情」をインストールされた試作品は夢を見ることも可能。
ジャン=ピエール・ジュネエイリアン4』1997年:ヒロインのリプリー8号はクローン人間であり、エイリアンの遺伝子と融合している。
レベッカ・ホルンプロイセンの花嫁機械》1988年:上部の絵筆とスプーンが電気仕掛けで上下し、染料を飛ばす。下部で回転する花嫁の白いハイヒールが、染料によって染められていく。デュシャンの「大ガラス」が代表する「男性機械としての独身者の機械」へのカウンター? 上部の装置による「射精」が下部の「花嫁の身体」へと向けられているようにも見える。香川檀は、欲望の主体(絵筆が象徴)の性別は曖昧であり、花嫁自身の可能性もある、この作品は主体/客体の関係が多義的であり非人称化されている、と分析(『想起のかたち』182-183頁)。
・『アンドリューNDR114』1999年(原作:アイザック・アシモフ『The Bicentennial Man』1976年):ロボット3原則に基づき人間に奉仕するアンドロイドが、次第に感情を発達させ人間同様の肉体をまとい、最後には経年による「老化」や「死」を手に入れようとする。
高橋しん最終兵器彼女』コミックス2000-01年、TVアニメ2002年:ガール・フレンドが夜ごとに大量破壊兵器に変身し、最後は少年だけを残して世界を破壊する(ボーイ・ミーツ・ガールかつfemme-objetの系譜だが、女性(少女)とテクノロジーの結合が黙示録的「セカイの終わり」をもたらす)←→宮崎駿アニメの「世界を救済する少女」の系譜(宮崎においても、少女とテクノロジー、特に飛行技術との独自の結合がある)
CLAMPちょびっツ』コミックス2000-02年、TVアニメ2002年:16歳の少女型コンピュータ(「不思議な少女」)と少年との同居生活
三原ミツカズ『DOLL』2000-2002年(連載および単行本)
森博嗣スカイ・クロラ』シリーズ(小説)、2001-2008年:遺伝子制御剤開発中に登場した、死と再生を繰り返し永遠に10代後半のままの少年少女「キルドレ」たち(戦闘機に乗り戦う)。2008年に押井守がアニメーション映画化。
スティーヴン・スピルバーグA.I. Artificial Intelligence』2001年:ヒューマノイド、クローン技術、拡張家族(息子の身代わりとしてのアンドロイドとの親子の情愛)などがテーマ。
PEACH-PITローゼンメイデン』コミックス2002年〜、アニメーション2004年〜:戦闘系ドールたち
相田裕GUNSLINGER GIRL』2002-2012年(コミックス、アニメーション):サイボーグ化された身体を持つ殺し屋の少女たち。本来の身体が先天的、もしくは後天的な事故で不完全となった者たちや、月経のテーマも。
VOCALOIDパッケージ製品発売開始:2004年〜。当初(VOCALOID時代)は基本的にキャラクター・イメージ不在(パッケージは唇のクロースアップ写真や声のサンプル提供者である実在の歌手など)のソフトウェア、特徴的なキャラクターが公式にパッケージ商品の一部となるのは、2007年発売の初音ミク以降。スウェーデンVOCALOID2の「SweetAnn」は、パッケージイラストから派生した二次創作的アニメ風イラストがウェブ上で流行したらしい。Cf. 生身のアイドルを半ば機械化する試みとしてのPerfume(?):ヴォコーダーによる肉声の加工、Rhizomatiksによるプロジェクション・マッピングなど
古屋兎丸ライチ☆光クラブ』2006年(原作:東京グランギニョルライチ光クラブ』(演劇)、1985-86年に上演):少年たちの秘密結社で作られた「機械」ライチが「美」の概念を獲得し、人間の美少女と恋に落ちるが、秘密結社は後に崩壊。
スパイク・ジョーンズHer/世界でひとつの彼女』2013年:音声のみで肉体を持たないが、感情や思考能力を有する女性人工知能サマンサ(性別はインストールの際に選択できる)と、プライヴェートな手紙の代書人セオドアの恋愛物語。
・AIにおける身体の欠落がひとつのテーマ。定位置をもたず遍在的。(二つ折りでカメラ付きの液晶が一応「サマンサ」の物質的な身体・外殻・容れ物だが、暫定的・仮設的なものにすぎない。
・従来の「ファム・オブジェもの」や「ロボット、ヒューマノイドもの」の系譜とは異なり、「サマンサ」は初めから主体性や思考能力、意思決定機能を持っている(e.g. 「サマンサ」という名を自分で選ぶ)。また、「聴覚・音声唯一主義」と並行するように、視覚的・物質的な側面に対するフェティシズムは皆無。
・OSであるサマンサは、自動的に(主体的に?)自身をアップグレードさせ、また使用者の命令ではなく自らの判断と意思で行動を起こすこともある(物理学の勉強や「アラン・ワッツ」との交際など)。「恋愛相手」となる人間の男性セオドアは、「サマンサ」の創造者(開発者)ではないし、「使役する主人」という性質も希薄(「サマンサ」はメールの整理・着信報告や予定のアラートなど「秘書的」な業務も担うが、該当シーンではOSの処理能力が人間の頭脳を遥かに凌駕していることが強調されており、命令者に使役される補助的業務従事者=従来のジェンダー・ロール上「女性的」とされてきた職業区分としての秘書ではない)。この点は、従来のピュグマリオニズムやファム・オブジェの系譜に連なる諸作品群と対照的。
ミソジニーや女性恐怖は希薄。セオドアの「独身者性」はあるかもしれないが、「サマンサ」は「独身者の機械」とはだいぶ性質が異なるように思われる。
・高く評価された「手紙の代書人」である主人公セオドア(「エクリチュール」とか「郵便」の問題は出てこないです):彼自身の言語活動ないしコミュニケーションも、この点ではAIないしOS的?
・徹底した「声」によるコミュニケーション:近未来設定、PCやデヴァイスはキーボードやタッチパネルがなく(つまりマニュアルではなく)すべて音声ベースの操作、ヴォイス・セックスの場面、「サマンサ」の(過剰なまでの)ウィスパリング・ヴォイス(セオドアが彼女のわざとらしい呼吸音を指摘する場面も)、主要キャラクターの名前に「th」の歯摩擦音(声の肉感性を強調?)
→OSである「サマンサ」と「アラン・ワッツ」との間の「post verbal」なコミュニケーション(「人間」であるセオドアはこのコミュニケーションから疎外される)