最近みた映画

黒沢清『カリスマ』1999年、『回路』2000年
『回路』の、生身の人間が壁に焼き付いた「影」になってしまい、やがてその影も塵のように霧散して消えてしまうというプロセスが、アナログ写真の現像の過程を逆回しにしているかのようで面白い。影が壁に焼き付く挿話は、『叫』にも登場する。こちらは、精神病院に閉じ込められたまま、窓辺に佇み最後は死んで白骨化する赤い服の女(幽霊)の影が、廃墟化した病院の壁に残っているという趣向で、原爆投下時に焼き付いた「影」を想起させる。
黒沢映画には、半透明の布がよく登場する。『回路』の薄手の生成りのカーテンや、『LOFT』で機械室に張り巡らされたビニールの覆いなど。いかにも幽霊の現れ出る場になりそうで、観る者にスリルやホラーをもたらすのだが、しかし結局そこには幽霊は現れない。反対に、日常的な汚れの範囲を超えて曇っているガラス窓や鏡(『叫』、『LOFT』)は、半透明の布と同様に映画のスクリーンと相似形をなすもの(支持体ないしメディウム)と言えそうだが、そこには(予定調和にも)幽霊が姿を現す。


蜷川幸雄金原ひとみ原作)『蛇にピアス』2008年
心理を独白するナレーションがほぼ棒読みの吉高由里子(ルイ役)と、常にヘラヘラしていて過去や内面的なものを一切見せない高良健吾(アマ役、失踪後に判明する名前の凡庸さや、葬儀写真の田舎染みた健康さとの落差が凄い)が、それぞれの人物の、本人さえも自覚していなそうな、ゾッとするほど空虚な内面を体現しているようで良かった。もしかしたらただ単に彼らの演技が未熟なだけなのかもしれないが、それがかえって公開時コピーの「痛みだけがリアル」という絶望的な虚無感・離人感に適っているような気がする。


・オムニバス映画『乱歩地獄』2005年より、実相寺照雄「鏡地獄」、カネコアツシ「蟲」
実相寺昭雄「鏡地獄」を講義ネタに使えるかもしれないと思い、DVDを借りてきたが、実は劇場で観たときから、本作が監督デビューだというカネコアツシ「蟲」の、ドギツイ人工美と腐敗しゆく生々しい自然との対比がたまらなく好きである。「面妖」という言葉がこの上なく似合う浅野忠信の、「狂気」の表現も秀逸。蟲ッ蟲ッ蟲蟲蟲ッ!


ウェス・アンダーソン『アンソニーのハッピー・モーテル(Bottle Rocket)』1996年、『天才マックスの世界(Rushmore)』1998年、『ザ・ロイヤル・テネンバウムス(The Royal Tenenbaums)』2001年、『ライフ・アクアティック(The Life Aquatic with Steve Zissou)』2004年、『ダージリン急行(The Darjeeling Limited)』2007年、『ファンタスティックMr.フォックス』2009年、『ムーンライズ・キングダム(Moonrise Kingdom)』2011年
ファッション・コンシャスな画面作りでも名高いアンダーソン監督。映画内の空間の性質と、フレーム内で「服飾」が果たす役割との関係を、例えばルキノ・ヴィスコンティ(『山猫』など、劇場的ないしはオペラ的?)やピーター・グリーナウェイ(『英国式庭園殺人事件』や『コックと泥棒、その妻と愛人』のピクチャレスク/ピクトリアル)と比較したら面白いのではないか、という予感。


大友克洋AKIRA』1988年、『スチームボーイ』2004年
大友のアニメーションは、構築物が崩れて瓦礫が雨霰のように降ってくる描写が頻出する。モンス・デジデリオやジュリオ・ロマーノがmoving picturesの技術がある時代の人間だったら、こういう映像を作っていたのかもしれないと思う。特に『スチームボーイ』は、「紙上建築」や「描かれた都市」の歴史、一点透視図法をはじめとする空間表象の歴史、リュミエール兄弟『列車の到着』などの映画史、それらの系譜を一部で引きつつも、独自のテクノロジーに支えられているアニメーションへのメタ意識、という点から、面白い分析ができそう。