埼玉大学教養学部

ヨーロッパ文化特殊講義第11回:表層との戯れ――鏡・顔・自己イメージの複数化
(リンク先の確認日はすべて2011年7月8日)


0.導入
[映像]森村泰昌《なにものかへのレクイエム:戦場の頂上の芸術(MISHIMA)》2010年。
http://www.youtube.com/watch?v=_4Aj1S3W0uo
c.f.本物:http://www.youtube.com/watch?v=bprGPmEwiw0
[図版]森村泰昌《セルフポートレイト・女優/赤いマリリン》1996年。
鏡の中に入る(鏡の国のアリスのように)/鏡の中にいる自分を鏡から出て眺める経験(写真による自画像=私を他者であるかのように眼差す契機)
「セルフポートレイト」かつ「他者としての私」(バルドーとしての私、「奴・江戸兵衛」としての私…)
c.f.「著名性」のアイコンを用いた遊戯:[図版]アンディ・ウォーホル「マリリン」シリーズ、「マオ」シリーズ:シルクスクリーンの色や刷りに現れる差異・個別性→大量生産されるイメージの模倣である制作プロセスを「ずらす」。

「私」のアイデンティティ=「表層」にまつわる:顔、皮膚、鏡像、写真(肖像写真、証明写真)、指紋……(c.f. DNAという情報)


1.鏡
1) 自分自身の「イメージ」を見出す/ダブル・イメージという他者が現れる(=ドッペルゲンガー

[引用]フロイト「無気味なもの」における「鏡像の他者性」
ひとりっきりで寝台車の一室にいた時、汽車が激しくゆれたさいに、隣の洗面所に通ずるドアが開いて、旅行帽をかぶり、寝間着をきた一人の老人が私の室に入ってきた。[…]が、まもなく、その闖入者が実はドアのガラスにうつった私自身の姿であることを知って呆然とした。私はいまでも、この現象が非常に不愉快なものであったことを覚えている。
ジークムント・フロイト「無気味なもの」(1919年)『フロイト著作集 第三巻』高橋義孝他訳、人文書院、1969年、353ページ。)

・「無気味なもの」=抑圧を経て回帰した身近なもの(身体断片、人形、ホフマン『砂男』で強迫的に反復される「眼を抉られる」恐怖……)
・ダブル・イメージ(分身)の系譜
アーデルベルト・フォン・シャーミッソー『影をなくした男』1813年(ドイツ):悪魔に自らの分身としての「影」を売った男の物語。
エドガー・アラン・ポーウィリアム・ウィルソン1839年アメリカ):良心(超自我?)の体現としての分身
ドストエフスキー『分身』1846年(ロシア)
オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』1890年:肖像画が一種の分身と化し、最後は像主と刺し違える。
ロバート・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏1886年(イギリス):「二重人格(解離性同一性障害)」を扱う。自己の他者性、alter egoの問題系
シュテラン・ライ監督、ハンス・ハインツ・エーヴェルス原作『プラーグの大学生』1913年(ドイツ):鏡像に付きまとわれる恐怖
オットー・ランク『分身 ドッペルゲンガー』1914年(オーストリア):西洋文学における「分身」モティーフについての精神分析的論考


2) イメージを複数化する
[図版]マルセル・デュシャン《テーブルを囲むデュシャン》1917年。
c.f. [図版]デュシャン《ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)》1921年

←自己の他者性・複数性と戯れるデュシャン

3) 身体(のイメージ)を断片化する
ジャック・ラカン鏡像段階」:乳児はバラバラの身体イメージから、「自己」という統一的なイメージを形成するが、これは様々な形で再び「切断」される。幼児が夢中になる鏡も、その最大の特徴は「寸断された身体(corps morcelé)」を見せる点にある。(ジャック・ラカン「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」(1947年)『エクリⅠ』宮本忠雄他訳、弘文堂、1972年より、引用者による要約。)
c.f. 第9回講義(6/24)の「5.断片化された身体」の表象群
・統一的・客観的な自己像を提供するかに見えて、私たちを裏切り続ける鏡。
c.f. 真実の審判者としての鏡:レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』


4) 鏡による/鏡としての自画像
[図版]パルミジャニーノ《凸面鏡の自画像》1523-24年、ウィーン美術史美術館。
[図版]ノーマン・ロックウェル《三重の自画像》『サタデイ・イヴニング・ポスト』1960年2月13日号。
←常に自分自身からズレている(左右反転、手や眼の動き…)


2.皮膚の上で他者を演じる
1) 刺青・タトゥー
[映像]ニコラ・フォルミケッティ監督、リック・ジュネスト(a.k.a Zombie Boy)出演、レディ・ガガ音楽、ティエリー・ミュグレー2011−12A/Wイメージムーヴィー
http://www.youtube.com/watch?v=3GpEyQ78CHo
←皮を剥がれ解剖されたイメージを皮膚という表層に刻んだタトゥー
・呪術や土着信仰との結合/特定のサブカルチャーとの連関/自分自身の拡張としての皮膚装飾→身体改造に接近(インプラントやスプリット・タン、全身のピアッシングなど)
・痛みによって皮膚感覚を覚醒し、現実感覚・身体感覚を(再)獲得する機能

2) 整形手術
鄯)失われた自分を取り戻す:第一次大戦後、顔面損傷兵の社会復帰のために発達(義眼や義手・義足と同様)。
[図版]第一次大戦による顔面負傷兵たち(gueules cassées)、フランス国立大学間連携保健図書館(la Bibliothèque interuniversitaire Santé) 所蔵。
[映像]ジュルジュ・フランジュ監督『顔のない眼』1959年:事故で顔を負傷した娘に、同年代の女性を誘拐しては皮膚の移植手術を繰り返す医師。
http://www.youtube.com/watch?v=nRS0pzHfBjI
←取り戻すべき「自己」とはいったい何者か?
鄱)理想の自分になる:「美容」整形手術
[図版]ルネサンス期イタリアでの整鼻術(上腕からの皮膚移植)
=ガスパーレ・タリアコッツィ(1546-1599)ボローニャの医師。『移植による身体欠陥の外科手術書(De Curtorum Chirurgia Per Insitionem)』(1597年)を著し、「イタリア式」整形手術の祖となる。(整形手術の発祥は紀元前800年のインド。アラビア経由でルネサンス期のイタリアに伝播。)
・19世紀半ばに技術が確立
・「理想の自分」をめぐる彷徨
e.g.マイケル・ジャクソンピート・バーンズ(Dead or Alive vo.)、中村うさぎetc.
→過去・現在の自分(自己イメージ)への否定という契機を孕み続ける。
鄴)他者になる
[映像]ジョン・ウー監督『フェイス/オフ』1997年:テロリストとFBI捜査官の顔が交換されたことで起るアクションとファミリードラマ。
[映像]デルマー・デイヴィス監督『潜行者』1947年:冤罪により投獄された主人公(H.ボガート)が脱走し、追跡を逃れるため整形手術で顔を変え、真犯人を探そうとする。しかし、「記憶の連続性」を確かめようとする刑事の誘導尋問に引っ掛かってしまう。→同一性を担保するのは、顔ではなく記憶である。
c.f. 安部公房『他人の顔』1964年(勅使河原宏監督『他人の顔』1966年):事故で顔面にケロイドを負い、社会的な居場所を失いつつある男が、巧妙な仮面を作って他人に成り済まし、妻を誘惑しようとする。妻の科白「自分の尾を咥えた蛇」→顔(アイデンティティの一徴表)を「失う」ことが社会生活の中で持つ意味。「他者になりすまそうとすること」が結果的に「自分自身に固執すること」を出来させる矛盾。c.f.「S・カルマ氏の犯罪」:名前をなくす。
[図版]オルラン《Refiguration / Self-Hybridation #30》1999年
[図版]オルラン、美容整形手術の風景
フランスの女性アーティスト。作品制作のたびに自らに整形手術を施し、「作品自体に成りすます」あるいは「整形のプロセスと結果自体を作品とする」。作品制作の度に顔が変わっていく。
←→森村泰昌:擬態すべき既存の対象と、戻るべき「自分自身」が確保されている。(それゆえ意図的な「ズレ」を孕んだパロディとして成立する。)

3) 化粧
鄯)社会的に求められている規範に従うための化粧
鄱)自己表現(個性化と同調)のための、ファッションとしての化粧
鄴)反抗としての化粧:美的な「標準」に逆らう
e.g. ゴス、メタル、パンク……[図版]
鄽)ジェンダーの越境・往還のための化粧
グラム・ロック、ニュー・ロマンティック・ムーヴメントにおける「化粧」
[図版]デイヴィッド・ボウイ(鋤田正義撮影)1973年。
[映像]デイヴィッド・ボウイ「スペース・オディティ」1969年と当時のヴィジュアル・イメージ。http://www.youtube.com/watch?v=uhSYbRiYwTY
[映像]カルチャー・クラブ「カーマ・カメレオン」プロモーション・ヴィデオ、1983年。
http://www.youtube.com/watch?v=JmcA9LIIXWw
[図版]ボーイ・ジョージ(ヴォーカル)の異性装(トランスヴェスティズム)
[映像]ジャパン「奇しき絆」ライヴ映像、1979年。
http://www.youtube.com/watch?v=IgGWqInvkLw
c.f. MTVの登場と普及:1980年代初頭のアメリカでケーブルTVチャネルとして登場し、瞬時に世界的に流行。音楽産業にとってPVは重要なファクターとなる。
ミュージック・ヴィデオの概略史:
http://www.ukadapta.com/contents/Art/Art_Film_Column1_PV.html

[引用]ボードリヤールによる「ジェンダー・ベンディング」概念
性の分野では予期せぬ出来事が生じている。乱痴気騒ぎ[引用者註:Orgy]が終わり、解放が済んでしまうと、もはや性は追求されず、《性(セックス)》(ジェンダー)が、言い換えれば外観lookならびに遺伝子式が追求されるようになる。[…]これは、禁忌の性愛文化[…]の後の、別の性愛文化であり、「私は優性なのだろうか。私はどの性に属するのだろうか。結局のところ、性の必然性は存在するのだろうか。性差はどこにあるのだろうか」と自分自身の定義について問う性愛文化なのだ。[…]男性的なるものの記号だけでなく、女性的なるものの記号もまたゼロ度に向かっている。まさにこうした情況のなかで、新たなアイドルたち、無限定な状態という挑戦に応じ、ジェンダーをごちゃまぜにして遊ぶアイドルたちが出現するのを目にするのである。彼らはジェンダーを屈曲させているのだ。彼らは男性でもなく、女性でもなく、また同性愛者でもない。ボーイ・ジョージマイケル・ジャクソンデヴィッド・ボウイー……。
ジャン・ボードリヤールアメリカ:砂漠よ永遠に』田中正人訳、1988年、76-79ページ。)

←しかしここで挙げられている具体例は、一方の極から他方の極への越境・往還に過ぎず、むしろ二項対立図式や「境界」の存在を保存・強化しているものもあるのではないか。
e.g.「女装」する男性や「男装」する女性が陥りがちな過剰さ、ジェンダーの紋切り型。
・「女性性」とは相反する美学(ロック、タナトス、ホモ・ソーシャリティと孤高性)のために要請されるアンドロジナス性(デイヴィッド・ボウイ)
・過剰なヘアメイクや身振りがむしろ際立たせてしまう男性的な特徴(ボーイ・ジョージ

☞二項対立自体を融解させる試みは可能か?
・可能性としてのMJ?→黒人/白人、男性/女性の境界を、そのフリークス性、モンスター性によって無化してしまう?
・[図版]ジェス・ドブキン《ミラー・ボール》2008-09、Performance Mix Festival, NY.
→自らの身体の表面を(自分自身でもその鏡像でもなく)明滅する複数の鏡、無限の反映像を結ぶ鏡面へと変貌させる。(ジェンダーのみならず、他/我の境界の融解・消滅でもある?)


【参考文献】
大宮勘一郎他『纏う――表層の戯れの彼方に』水声社、2007年。
岡田温司『芸術[アルス]と生政治[ビオス]――現代思想の問題圏』平凡社、2006年。
田中純『政治の美学――権力と表象』東京大学出版会、2008年。
・谷川渥『鏡と皮膚』ちくま学芸文庫、2001年。
橋本一径『指紋論――心霊主義から生体認証まで』青土社、2010年。
港千尋『考える皮膚』増補新版、青土社、2010年。
鷲田清一『顔の現象学――見られることの権利』講談社学術文庫、1998年。
・ディディエ・アンジュー『皮膚-自我』福田素子訳、言叢社、1993年。
・Joanna BOURKE, Dismembering the Male: Men's Bodies, Britain and the Great War, London, 1996.
ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 : 「アブジェクシオン」試論』枝川昌雄訳、法政大学出版局1984年。
・Sander GILMAN, Making the Body Beautiful: A Cultural History of Aesthetic Surgery, Princeton, NJ and Oxford, 1999.