サブとマス

「フランスでは日本のサブカルチャーがブーム」という科白は、2000年代初頭から耳にしていたが、実際にフランスの地方都市に来てみると、どんな層(cultural tribe)が何を求めて日本のサブカルチャーを享受しているのか、いまひとつよく分からないのも事実。そんなもやもやした中で、いくつか面白い記事を見つける。
フランスでは誰が日本の漫画を消費しているのか?
元記事はすでにブログごと消滅しているようで、リンク先はインターネット・アーカイヴが捕捉したものである。この記事の執筆者はリヨン在住とのことだが、正直これがフランスの地方都市在住者の実感なのかな、という気もする。(リヨンはディジョンよりははるかに都会だが。)ディジョンに限って言えば、「日本があまり知られていない」というより、「サブカルチャー的なもの」にアクセスする回路がほとんどないのだ。勿論、日本の漫画やアニメは、本屋では普通に、ヴィレッジ・ヴァンガード的「サブカル」ではなく、極めて「普通」に売られている。児童・少年向けのマス・カルチャーとして。
自分が2000年代前半によく聞いたのは、「オタクが一種のファッションとして享受されている」という論調だったのだが、その実態は今ひとつよく分からないままだ。以前に紹介した『L'imaginaire érotique au Japon』などは、半ばファッション記号と化した「サブカル」「アングラ」の領域内で、日本のカルチャーを取り上げた典型例なのだろうが、オタク文化受容については今ひとつよく分からない。
東浩紀氏の『動物化するポストモダン』が、『Génération Otaku』というあまりにも凡庸な、無毒化されたタイトルで仏訳され、刊行にあわせたシンポジウムが、Science Poの社会学系(?)研究者たち中心に開かれたらしいが、いったいそれがフランスにどんなインパクトを及ぼしたのかも今ひとつよく分からない。『動物化するポストモダン』が世間に与えた衝撃の一つは、フランスで言えばノルマリアンに相当するレベルの知的エリートが、「オタク」について語ってしまったことだと思うのだが、それがフランスのアカデミズムに何らかのインパクトを与えたのかもよく分からない。
もうひとつの記事はこれ。ハードコア・ゲイポルノで知られる漫画家、田亀源五郎氏を紹介する記事が、フランスのリベラシオン紙に掲載されたというもの。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2007/02/post_481d.html
リンク先のブログでは、仏語記事の転載も読める。記事のトーンは、『L'imaginaire』に近い気がする。スノッブなインテリが眺めるサブカルチャーというか。仏訳版の田亀源五郎をどんな層が購入しているのかは相変わらず見えてこないが。

話は変わるが、とあるSNSに「おしゃれサブカルに反対」という趣旨のコミュニティがある。この感覚(サブカルを享受することが「おしゃれ」という感覚も、そういう自意識過剰なスノビズムが鼻につくという感覚も)、70年代半ば生まれの自分にはすごくよく「分かる」。臆面もないマスカルチャーと同じくらい、ハイカルチャーもbanalだよねという感覚。「ドラクロアとゾラとマーラーが好き」と言うより、「できやよいと舞城王太郎エイフェックス・ツインが好き」と言う方がお洒落でカッコいいよね、という感覚。subcultureではなくて、あくまでも「サブカル」。
では、フランスには(counter cultureとしてのsubcultureではなく)「サブカル」的なものは存在するのか、というと、これが今ひとつ分からないのである。パリのどこかには、そういうトライブ向けの専門店があるかもね、という感じ。

こういう事柄は、一個人の経験論や印象論ではなくて、徹底的にアンケートをとって統計分析しないと把握できないのかもしれないが。

オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生

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もはや古典書?「オタク」がその黎明期に持っていたネガティヴなコノテーション(例えば宮崎勤事件や、現在も流通している「キモヲタ」というニュアンス)などには触れることのない、あくまでもotaku論という感想、を7年位前に読んだときに持った。