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Henri FocillonのGiovanni Battista Piranesi 1720-1778 : essai de catalogue raisonné de son oeuvre (Paris : Libr. Renouard, H. Laurens, 1918)、リプリント版が2001年にも出ている(http://www.amazon.fr/dp/2884745041/)。日本ではむしろ『形の生命』で知られている感のあるフォシヨンだが、博士論文ではピラネージを手掛けていた。ブルゴーニュ大の図書館に1918年と2001年のヴァージョンがともに所蔵されていたので、閲覧してみた。2001年版では図版の細部が潰れてしまっていることが分かる。オリジナル作品ではなく、1918年版に掲載された図版を再度コピーしているのだろうか。また1918年版では、Fermin Didot社の活字を使っているとのキャプションが巻末に載せられているが、Fermin Didot社こそはピラネージの死後、その原版を所有し版画の刊行を担っていたパリの印刷業者であった。(この原版はその後ローマ教皇に寄贈され、現在はローマのIstituto nazionale per la graficaに所蔵されている。)
ピラネージの存命中は、ピラネージ工房(ローマのコルソ通り、当時のフランス美術アカデミーローマ校の向かいにあった)で印刷が行われていたが、その近くに印刷所を構えていたフランスの業者Jean Bouchard(イタリア風綴りGiovanni Bouzard)や、やはりフランスの印刷業者Gravierも、彼の作品の印刷を請け負っていた。Jean Boucahrdからは『牢獄』(1745年)が刊行されている。ディジョンの公立図書館の18世紀版画コレクションに収められているピラネージ作品には、こちらの日記でも触れた通り、イギリスの印刷所(F. Vivares at the Golden-Head in New Port street, Licesterfield)のキャプションが入ったものもある。
2001年のリプリント版裏表紙を見て初めて知ったのだが、フォシヨンはなんとディジョンの生まれ。
ちなみに、自分の手元にあったフォシヨンのピラネージ論は、1963年刊のnouvelle édition(の複写)。書名は単にGivanni-Battista Piranesiになっていて、「カタログ・レゾネの試み」というサブタイトルも「パリ大学文学部提出博士論文」も記載がないので、1918年刊行のものは、これとはまた別の内容なのかと思って閲覧請求してしまった。63年版、2001年版とも、書名は簡略化されても、内容の改変はないようだ。
火曜日にはロータリークラブ主催のチャリティー映画会があって、自分もカウンセラー一家とともに参加。マンフレッド・タフーリとユベール・ロベールを足して二で割った名のカウンセラー氏は、ディジョン在の産業デザイナーたちのマネージメントを手掛けていて、建築やアーバンデザインにも造詣が深い。私のMaster2論文のことや、先日のバルセロナ旅行で見た現代建築(ミースのバルセロナ・パビリオン、リチャード・マイヤーの現代美術館やジャン・ヌーヴェルのアグバールタワーなど)の話をしていたら、自分の思考にとってヒントになるような一言を聞くことができた。「新古典主義と言っても、絵画と建築では方向性が違うと思う。新古典主義絵画は上流階級向け(élitaire)のものに留まったけれど、新古典主義建築はモダニズムへの流れを作った。たとえばミース(フランス式にはミーズと発音するようだ)は、シンケルに大きな影響を受けたと言っている。」
ピラネージは、ルドゥーやブレとは違って、幾何学的デザインという分かり易いモダニズム的言語を用いたわけではないが、それでは彼の中にモダニティがあるとしたら、それは何なのか?一つの作家、一つのテーマに取り組んでいると、ついつい視野狭窄に陥りがちだ。特に自分は美術史・建築史の基礎訓練(体系的知識の叩き込みや、西洋系諸言語のトレーニング、実証的調査のための実践的ノウハウの伝授)を受けてこなかったという引け目もあるので、ついつい妙に枝葉末節にファナティックになってしまい(例えばカイリュス伯のエトルリア論をきちんと読解できているか、とか)、木やその樹皮や葉脈ばかりで、森を見る視点を失いかけてきたところだったので、観点を変えてみるいいきっかけになった。
もちろん、「古い時代の伝統や同時代の影響を引きつつも、新しい時代の端緒となった」「同時代の凡庸な作家にはない『モデルニテ』がある」「それまでの支配的な約定の破壊者であった」というような評価は、美術・建築史上「巨匠」や「大家」に位置づけられる作家のほとんどに対して成り立ってしまうものだ。(むしろそのような評価が可能だからこそ、教科書に名前がゴシック書きされるような位置づけを与えられているのかもしれない。)綿密な調査や精緻な資料読解という強固な基盤の上に、いかに個別の作家に即して、説得的な理論を構築するのか、それが研究の賭金なのだろう。
特定の組織に身をおいて、職業人として「研究」や「批評」を行うことの意味は、何なのだろうとずっと考えてきた。特に最近は、ブログなどの形で意見発信を行う人も増えてきて、中には下手なレベルのプロよりはよほど聡明で洗練された思考を持つ「アマチュア」もいる。大学院に入って苦労するよりも、安定した収入を約束されている仕事を続けながら、趣味で本を読んだり世界中の美術館やモニュメントを巡ったり、そのレビューをときどきウェブにアップしたりしている方が、資金が潤沢な分もしかしたらレベルの高いことができたのではないだろうか、という疑念が浮かぶことも。そんな折に留学して、地元ディジョンの公立図書館やパリの国立図書館、ローマの国立版画館などで調査を行ううちに分かったのが、「大学(院)に所属している」「XX教授の指導を受けている」「学位論文執筆に必要な調査である」というだけで、アクセスできる資料の範囲がもの凄く違うということ。自分がコミットしている「表象文化論」だの「イメージ分析」だの言う方法論は(「方法論」として統一的なコンセンサスが取れているのかも怪しいが)、とかく「外部者」からは「二次文献と複製図版だけから勝手な思いつきを開陳する、砂上楼閣みたいな思考様式」という偏見をもたれやすい。だけれども、「実証的事実」に留まらない解釈や思弁の妥当性と強度を保証するのは、「実証」を標榜する研究と実際には変わることのない、「研究者の特権」が保護してくれるような基礎的作業なのではないか。奨学金も今学年度で終わり、すでに約半年後に迫っている帰国まで、自分に与えられた環境を大切にしていかないと。と思って公立美術館に資料閲覧を求めるメールを送ったのだが、3回もエラーで戻ってきた。同じ文面を封書でも送ったが、そろそろ1週間たつのに音沙汰なし。いっそRDVなしで突撃でもするか……