バラバラ死体とモダニティ

The Body in Pieces: The Fragment As a Metaphor of Modernity (The Walter Neurath Memorial Lectures, Number 26)

The Body in Pieces: The Fragment As a Metaphor of Modernity (The Walter Neurath Memorial Lectures, Number 26)

フランス革命期のギロチンからゴッホの切り落とされた耳まで、断片化された(つまり完全性・総体性を奪われた)身体に、近代性を見出す。

  
先日訪れたカルナヴァレ美術館には、廃墟画家として有名なユベール・ロベールの作品が多数展示されていた。「廃墟」の様相を呈した建築物は、その実、破壊される途中であったり(改築や新築のため、フランス革命による動乱、火災など、その原因は様々だ)、築造工事の途上であったりする。(後者の想像力は、宮本隆司による「廃墟に近似した存在としての工事中物件」に近いのではないだろうか。)上記の「廃墟」的建築を描く手法は、ローマの廃墟を描く際と何ら変わることがない。しかし、そこに描かれている時制には、決定的な差異が存在するはずだ。ローマの廃墟は、長い時間経過の中で徐々に浸蝕されてきたものであり、過ぎ去った時間への追憶を喚起する。今まさに破壊されつつある建築においては、そこに描かれているのはカタストロフィックな瞬間であり、甘やかな郷愁の入り込む余地がない。

ちなみにカルナヴァレ美術館は、「パリの歴史のミュゼ」と銘打たれているが、そこに展示されているのは(少なくとも外国人である私の目には)「フランス国家の正史」とほぼイコールの「歴史」であるように思われた。例えば「アルザス性」を前面に打ち出した――しかし不思議なことに、アルザスの独自性の強調が、フランスに対する愛国心へと横滑りする傾向があるのだが――ストラスブールの美術館や博物館とは、対照的である。(この二つの極端ながら象徴的な例に比べると、ディジョンミュージアムは無個性で無頓着なものに映る。中央でないことは勿論だが、それと対置されるような「郷土性」の意識も希薄なのだ。ストラスブールが東北だとすると、ディジョンは北関東と言ったところだろうか。)