原点回帰

目前に迫った修論提出に忙殺されている。そんな中で、遠い昔にフランスに憧れる切っ掛けとなった文章を憶い出す。

キスした人
お月様が夜おそくパリーの場末を歩いていると うしろから顔をねじ向けて無理にキスした者があった アッと声がして 向うの街かどを曲ってゆく後姿をガス燈の下に見た お月様はあの人だと思ったが それがたれであるかはわからなかった お月様は三日間いっしょうけんめい考えた おもいだせなかった そしてそれはとうとう判らずじまいになってしまった。
稲垣足穂一千一秒物語」)

眠りに沈んだ真夜中に、都市空間に唐突に侵入してくる幻想の世界。きっとパリの場末では、現実と異界との境目が、どこかに口を開けているのではないかと思った。それから十何年も経って、パリの身も蓋もない現実も知識として知るようになり、それと同時に自分の中のパリ憧憬は霧消してしまった。実際にフランスにやって来たのは、幻想が滅びてから随分と経ってのことである。ぼんやり光るお月様の遊歩するパリは、どこにも存在ないことをもはや知っているけれど、幼さが生んだファンタスムには、未だに甘美な郷愁が漂う。

ちなみに「一千一秒物語」は1923(大正12)年の執筆。1920年頃から、都市空間の一部が突如異界と化すような幻想小説が現れてくるのが面白い。泉鏡花などとはまた別の幻想性である。