川本三郎荷風と東京』文庫版上下2巻が届いた。荷風には「江戸的なものに固執し、モダニズムに乗り遅れた作家」だという印象を抱いていたのだが、それは作家自身による一種の韜晦で、実は(けなしつつも)都市のモダニズム的側面にフットワーク軽く参画し、精緻に観察していたということを知る。


荷風が晩年を過ごした市川は、当時(終戦後〜1950年代)はまだ田園風景の広がる土地だったという。「郊外の住宅街」などではなく、はっきりと「田舎」であったようだ。私は2010年代半ば以降の、ベッドタウンとしての市川しか知らないので、隔世の感がある。文学から土地の記憶を想起することは、すでに失われたものの面影を求める作業なのだろう。(「聖地巡礼」のような今日的な「コンテンツ・ツーリズム」とは、まったく異なるテクストと土地と記憶のあり方だろうと思う。)


荷風はいち早くカメラを入手し、それを携えて「散歩」をしていたという話には、たいそう興味を惹かれた(澁澤龍彦『思考の紋章学』にも言及があるそうだが、記憶にない。たぶん読み飛ばしたのだろう)。荷風撮影の写真は、私家版『墨東綺譚』や岩波版『おもかげ』(ともに1930年代半ば)に収められているそう。川本三郎は、萩原朔太郎荷風を比較している(芸術写真の朔太郎に対し、風景を記録するための写実写真が荷風)。見た情景を写真に撮る、あるいは写真のようにものを見るテクストの人という点では、マクシム・デュ・カンなども思い浮かんだ。日常風景の荷風と、異郷の旅のデュ・カンという違いはあれど。


写真と都市小説といえば、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』初版刊行が1928年、荷風が自身の撮影した写真入りの小説・随筆を刊行したのが1930年代半ば、カメラの普及が文学にもたらした新たな形式の、国際的な拡がり(直接の影響関係に限らず)というのもあるのかもしれない。荷風はもちろんフランス語を解し、翻訳も手がけていたそうだが、ブルトンなども読む人だったのだろうか?
『ナジャ』はもちろん、安部公房の小説と写真の関係などもよく論じられていそうだけれども(覗き見する主人公とカメラの類似性など)、「永井荷風と写真」はどうなのだろう。川本三郎は、荷風は「徹底した「見る人」」であり、それは写真機を「現実との絶好の遮蔽物」にするような見方であった、としている。

 

タクシーの登場(そして深夜になると値下がりする当時の料金体系)が、東京の夜を深くし、「夜型都市」にしていったという指摘にもはっとさせられた。モダニズム文学に夜の都市をあてどなく逍遥する場面が多いのは、(深夜まで開場している映画館や劇場、カフェーなどの存在に加えて)そのような社会的インフラをめぐる現実に支えられてのことだったのか。

南大沢でワクチン接種の後、そのまま京王線駒場博物館の「宇佐美圭司:よみがえる画家」展へ。

逸失(廃棄処分)でニュースになった本郷学生食堂の例の絵画だけでなく、しばしば目にする人文書や文学作品の装幀も、そういえば氏の手掛けたものであったことに気付かされる。

絵画作品数点、地図をパズルのようにくり抜いた立体作品、レーザー光線とアクリル板のインスタレーションを眺め、NHKが制作した「画家のアトリエ」宇佐美回の映像を見る。輪郭線、ステンシル、それからプランということについて、しばし考えてみる。
作品の保存修復における部品交換の問題を、「テセウスの船」の比喩で説明したパネルの文章が、「ああ、なるほど」と腑に落ちる(「自己を構成する部分の交換」と「自己同一性」の問題に共通する問いの比喩であろう)。

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本郷食堂にあった絵画《きずな》は、学部専門課程生の頃、何度か目にした。食事をしながらふと目に入るたびに、「これは絵画なのか、ポスターなのか、それとも何かの模式図なのか」と不思議に思ったことを覚えている。特徴的な人物のシルエットが反復されていること、三層構造の構図で、階段のようにも見えるパーツや、人物像を繋ぐ赤線が入っていることなどが、「模式図」めいていたのだろう。一言でいうと、それまで自分の知っている「絵画」の系統からは外れた一枚だったということだ。古典的な具象画でもなく、いわゆる「現代美術」の系譜でもない、一瞬「これはなんだろう」と思わせるが、強烈な謎を突きつけるドギツい(?)アヴァンギャルドでもないような。

展覧会場を出たあと、少しだけ構内をうろつく。近年は新しい施設も増えて、整然としたどこか息苦しいキャンパスになりつつある印象だったが、久しぶりに訪れた晩夏の駒場は、鬱蒼と繁茂する自然と、古びてインスタントな機能から解放されたように見える建物と、ただ長く続く時間とが、溶け合いながら微睡んでいるような、四半世紀前と変わらぬ、心落ち着く場所だった。 

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Bunkamuraザ・ミュージアムの「マン・レイと女性たち」展へ。

著名な写真(《ガラスの涙》、《アングルのヴァイオリン》、ココ・シャネルのポートレイト……)やレディ・メイド作品(メトロノームに眼の写真を貼り付けた《破壊されるべきオブジェ》、アイロンに棘を貼った《贈り物》)、ソラリゼーションなどは講義でもよく紹介していたが、彼の活動の全貌については、ほとんど知らなかったことに気づく。デッサン、油彩画や版画(エッチングリトグラフ)、ブロンズなどの立体作品、さらにはアクセサリーのデザインも手がけていたことを知る。ウクライナベラルーシユダヤ人の移民2世で、マン・レイは第二の名前であることも初めて知った(ペンネームというわけではなく、一家で苗字をレイに変えたとのこと)。

自身(の名)をずらすこと、ずらす身振りによって「謎」を提示すること。自身(の記号や代理物)を用いて遊戯をすること、などについて考えさせられる。(マン・レイのモノグラフィー研究でもシュルレアリスム研究でも、すでに散々論じられていそうではあるが。)「謎」は謎であることが明らかだからこそ、解くべき「謎」たりうるのであって、完全に隠匿されていれば「謎」ですらない。「謎があること、謎であることの顕示」に、マン・レイは長けていたと思う。

マン・レイの写真には、マネキンや彫刻を写したものも多いが、それと同時に、「人間を人形や彫刻のように写している」ように思われる。身体の一部分を切り取った作品(女性の臀部をクロースアップした《祈り》など)でも、ポルノグラフィックだとかエロティックでは決してなく、ただ物質や表面のマティエールがそこにあるという感じ。ソラリゼーション技法や、ゼラチンシルバープリントの質感が、いっそう彫刻的・人形的な質感を強調しているのかもしれない。

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朝日新聞夕刊のリレー連載「にじいろの議」に寄稿いたしました。「空想散歩の歴史をたどる:居室から広がる「体験」」と題して、コロナ禍で一気に普及したヴァーチュアルヴィジットから、空想旅行や空想美術館の系譜を辿ります。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15007494.html
(有料会員限定)


この記事でも少し言及しているグザヴィエ・ド・メーストル『居室周遊紀行(部屋をめぐる旅)』、ルリユール叢書から9月末に邦訳が刊行されるとのこと。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784864882316

高梨豊の写真集『地名論 genius loci, tokyo』(毎日コミュニケーションズ、2000年)を購入した。

 

一九九四年からはじめたこのシリーズは、「地名」をたよりに始められた。町の名であり、川の名であり、橋の名であり、坂の名前である。本郷ならば「森川町」や「菊坂」となる。

 「界隈」を失った東京を「地名」を軸にとらえようとしたもので、いわば〈面〉から〈点〉への視点のシフトであり、空間にかわる時間的なアプローチである。マチを水平に歩くのでなく、地ベタを垂直に歩行するのである。足取りはひっきょう「歴史」への歩行となる。

[…]

 あるとき「歴史」を「履歴」に読みかえてみる。ペラッと一枚、あの履歴書のリレキである。印画紙二枚のこの仕事にはふさわしい。そうこうあって、『地名論』は続けられた。

高梨豊によるあとがき)

記憶の時間を遡る旅も、都市のなかに連綿として息づいている地名に封じ込められている。われわれは蒔空を越えて旅をし、都市のなかにある誰も知らない記憶を探り当てたいと願うことがあるが、そのときも地名はわれわれを捉えつづける。

鈴木博之「地名論の世界――高梨豊写真集によせて」)

 

勤務先の教育振興プログラムで、いま「市川文学散歩」というプロジェクトが進行している(8月半ばには、パンフレットの配布や市川駅南口図書館での展示が始まるはず)。学生有志たちが、大学の所在地である「市川」の登場する作品を探し出し、地名や場所を特定した上で、文中でその場所がどのように描写されているのか、物語の展開上どのような役割を果たしているのかを探り、パンフレットやウェブサイト、展示物などにまとめるというものだ。昔の作品だと、現代の地名や土地利用状況とは喰い違いが出てくるので、当時の地図を探して調べたり(といっても、「今昔マップ」であらかた用が足りるのだが)、かつての地名の残骸を街角のちょっとした細部に見つけ出したりと、いわば「テクストの探偵術、都市の観相学」めいた作業が要求される。

この「市川文学散歩」プロジェクトでは、作品の解説とともに、現在のその場所を写真に撮り、パンフレットやウェブサイトに掲載してもいる。つまりそれは、都市の相貌を写す、都市の記憶を留めるという試みでもあるのだ――そこでふと、写真家の高梨豊の活動を思い出し、彼の写真集(自分の蔵書には一つもなかった)をいくつかオンライン古書店で購入してみた、という次第。

 

『地名論』の撮影時期は1994年から2000年まで。新宿、本郷、下北沢…… 私が大学進学後、東京に出てきてすぐの頃に見知った風景もとらえられている。かつては確実にそこにあった、しかし今はもう相貌を変えてしまった風景、そのなかを歩く人々。都市の粗い肌理、その手触りのようなものや、晴天の日の猥雑な匂いのようなものが、ふと写真から感じ取れるような錯覚がある。


自分が写真を撮るようになったのは、技術的関心からでも美的関心からでもなく、消えてしまう情景、失われゆく情景を留めたいという、切羽詰まった感覚からだったことを思い出した。1990年代後半、駒場寮も同潤会アパート群も、取り壊しが宣言され始めた頃である。

ユリイカ ココ・シャネル特集』2021年7月号に、論考「フィルムのなかのシャネル」を寄稿しました。『去年マリエンバートで』を中心に、ジャン・ルノワールゲームの規則』、ルイ・マル『恋人たち』、『ボッカチオ‘70』収録のヴィスコンティ作品などに触れ、シャネルによる衣裳がもつ役割を考察しました。
シャネルはデザイナーとして、女性として神話化された存在になっていますが(Twitterを「ココ・シャネル」で検索しても、彼女の言葉だという「名言」が数多くヒットします)、今回の特集は、このような紋切り型のシャネル像を解体し、複数の新しい視点をもたらす試みになっていると思います。

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国立新美術館の「ファッション イン ジャパン 1945-2020」展に行ってきた。戦前のモガの洋装、戦中の国民服、戦後の洋裁ブームと洋裁学校から、個々のデザイナー、ユースカルチャー、雑誌、広告、改造制服、DCブランド、アイドルや音楽とファッションの関係、ファストファッション、近年のSDGsエシカルを意識した流れまで、様々なレベルの「ファッション」が、時系列で並んでいるのだが、不思議と「雑駁」という印象はなく、日本の社会現象としての「ファッション」を規定してきた要素について、知見を広げつつ整理できたという感想。作家主義的なデザイナー論では、なかなか取り上げられなさそうなデザイナーやDCブランドが掬い上げられていた点もよい(それぞれの時代の空気のようなものの立役者、という意味で)。
個人的には、初期のMILKと金子功を見られたこと、(これまで初期MILKが紹介されているという知識のみだった)『服装』という雑誌の正体が分かったことも成果。