南大沢でワクチン接種の後、そのまま京王線駒場博物館の「宇佐美圭司:よみがえる画家」展へ。

逸失(廃棄処分)でニュースになった本郷学生食堂の例の絵画だけでなく、しばしば目にする人文書や文学作品の装幀も、そういえば氏の手掛けたものであったことに気付かされる。

絵画作品数点、地図をパズルのようにくり抜いた立体作品、レーザー光線とアクリル板のインスタレーションを眺め、NHKが制作した「画家のアトリエ」宇佐美回の映像を見る。輪郭線、ステンシル、それからプランということについて、しばし考えてみる。
作品の保存修復における部品交換の問題を、「テセウスの船」の比喩で説明したパネルの文章が、「ああ、なるほど」と腑に落ちる(「自己を構成する部分の交換」と「自己同一性」の問題に共通する問いの比喩であろう)。

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本郷食堂にあった絵画《きずな》は、学部専門課程生の頃、何度か目にした。食事をしながらふと目に入るたびに、「これは絵画なのか、ポスターなのか、それとも何かの模式図なのか」と不思議に思ったことを覚えている。特徴的な人物のシルエットが反復されていること、三層構造の構図で、階段のようにも見えるパーツや、人物像を繋ぐ赤線が入っていることなどが、「模式図」めいていたのだろう。一言でいうと、それまで自分の知っている「絵画」の系統からは外れた一枚だったということだ。古典的な具象画でもなく、いわゆる「現代美術」の系譜でもない、一瞬「これはなんだろう」と思わせるが、強烈な謎を突きつけるドギツい(?)アヴァンギャルドでもないような。

展覧会場を出たあと、少しだけ構内をうろつく。近年は新しい施設も増えて、整然としたどこか息苦しいキャンパスになりつつある印象だったが、久しぶりに訪れた晩夏の駒場は、鬱蒼と繁茂する自然と、古びてインスタントな機能から解放されたように見える建物と、ただ長く続く時間とが、溶け合いながら微睡んでいるような、四半世紀前と変わらぬ、心落ち着く場所だった。 

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