そごう美術館(そごう横浜店6F)で開催中の「SIMON DOLL 四谷シモン」展に、漸く足を運ぶ。ずっと見たいと思っていた、氏の全活動年代を通した人形作品の数々と対面する。

写真で見たのでは分からないディテールやマチエールまで具に観察できて、色々と新鮮な発見があった。球体関節の使い方(完全に独立した球体が関節に嵌め込まれているのではなく、一方の四肢とボールの約半分が接合されているものも多い)や、素材(これまでずっとビスクか陶製だと勘違いしていたのだが、日本の人形作りの系譜を継いで、紙の張り子に砥の粉などで表面を仕上げているという)、顔に比してあからさまに大きすぎる眼球、肌の表面がとりわけ近年は荒粗な仕上がりになっていることなど。

木枠の構造や発条仕掛けを覗かせた機械人形、身体の一部分が「未完成」のまま残された人形などは、どこか「壊れた人形」のようでもあり、これは工事途上の建築物が、崩れかけて内部構造の一部が露出した廃墟とよく似ていることにも通じているように思う。これはただの私見だけれども、一部分が壊れて、「モノ」としての、あるいは無機物としての性質が露骨になった人形の姿こそ、究極的に「人形」らしい人形なのではないだろうか。生きている人間のように、あるいは死体のように見えることも人形の蠱惑の一つだろうが、それは死の後にはすぐに腐敗してしまう、柔らかく脆い血肉からなる人間の身体とは決定的に違うのである。

私が「四谷シモン」の名前を初めて知ったのは、10代初めの頃である。当時なぜか心惹かれて読み漁っていたアンティーク・ドール関連のムックに、その頃流行作家だった森瑶子のドール・コレクションが紹介されており、そこに「四谷シモンの人形」なるものが取り上げられていたのだ。一ページのグラビア写真に写された書斎の戸棚には、夥しい数のアンティーク・ドールやらなにやらが並べられており、正直なところどれが「シモンの人形」なのかそのときは分からなかったのだけれど、「四谷シモン」という不思議な響きの名前と、現代の世にも「人形師」という職業の人間がいるらしいというインパクトは、ずっと頭の片隅に残り続けた。

その次に「四谷シモン」の名を見掛けたのは、確か中学生の頃、向田邦子原作ドラマの出演者としてである。私の記憶が正しければ、町の写真屋の主人役であったり医者の役であったり。今思えば、どこか「人形作り」と底を通ずる役どころ(人間のドッペルゲンガーを映し出す、身体のメカニズムや病理を診断する)だったのではないかという気がする。

肝心の氏の手による人形を見たのは、上京してからのことだったと思う。澁澤龍彦の『少女コレクション序説』文庫版の表紙を飾る、あの革靴を履いた少女人形だ。その後、これはもうだいぶ大人になってからだけれども、『htwi』という雑誌で氏の長文インタヴューを読み、「スィートなものを作りたい」という言葉に、なにか精神を救済される気持ちになったのを覚えている。dégoûtなものや無気味なもの、あるいは人間の内奥に潜む暴力性や邪悪さを露呈させたような表現も好きだけれど、世界には少しくらい、純粋に甘美な世界を作る人がいてもいい。