☆吸血鬼というモティー

ブラム・ダイクストラなど、ファム・ファタール研究で著名な批評家たちは、男性に悪い運命を持ち込むファム・ファタールとして、サロメやギネヴィア、シャロットの姫などをあげてその象徴性の分析をしているが、その際しばしば、フェミニスト精神分析批評的な言説として、ファム・ファタールを「(象徴としての)ペニスを持つ女」と見なすことが多かった。もちろん実際にペニスがある、ということではなく、象徴上のペニスを有する女、という意味である。これは、男性的資質である知性を身につけた女、という意味で使われることもあるが、男性自身を性的魅力で堕落させることによって男性性を脅かす存在、つまりは男性性を攻撃する存在を意味することもあった。ファム・ファタールの性的魅力は、深淵と化したヴァギナの象徴性によって高められ、男を呑み込む深淵は、男を死(タナトス)へと導く、裏返されたペニスというわけなのである。
こうしたファム・ファタールのエロスは、今日でいう吸血鬼的な性質と重なり合う。[…]つまり、ヒトのセックス行為からは逸脱し、血の交歓により増殖するという物語が提示され、社会的に隠蔽されている奔放なセクシュアリティの存在をうかがわせるものであった。かならずしも生殖につながらない性の快楽があること。これが同性愛やフェティシズムなどの多形倒錯を示唆していたのである。それゆえ、こうした背景をうかがわせる吸血鬼やファム・ファタールが、「正常な妊娠・出産」を家庭のベースと定める当時の社会性に対して、過剰な攻撃力を内包しているのは、自明であった。その怪物性こそ、正統なる男性性の競争者として位置づけられるのである。
小谷真理腐女子同士の絆――C文学とやおい的な欲望」『ユリイカ 総特集BLスタディーズ』2007年12月臨時増刊号、Vol. 39-16、28-29ページ。)

吸血鬼は、生と死のちょうど真ん中にいる存在である。こうした中間状態は、まだ完全には死んでいない死者にも、あるいは生の本質的局面をすでに剥奪されているため、もはや完全に生きているとはいえない生者にも属しているとみなすことができる。ルーマニア語の〈ノスフェラトゥ〉は、息を引き取っていないことを意味するが、それが吸血鬼と同義となったことで、次のことが明らかとなる。すなわち、吸血鬼は復活した本物の死者ではなく、むしろ偽の死者であり、もっといえば偽の生者、より本質的には生死とは無関係な、別の何かだとみなされるべきなのだ、ということである。生でも死でもないこの状態こそ、まさしく無機的なもののセックス・アピールであり、感覚するモノの中性的かつ非人称的な経験である。暗黒のロマン主義からホラーに至るまで、集合的想像力にいまや文字どおり取り憑いてしまったのは、人格の同一性に還元不可能な、硬直的にして昏睡的、匿名的にして不透明、生命以後にして人間以後、前死的にして前埋葬的な、非主体的で無機的な感覚なのである。
(ペルニオーラ『無機的なもののセックス・アピール』118-119ページ。)


追記すること
(同上、123ページ)