不気味さとキッチュ

白い大理石の彫像は単純に「美術作品」として享受しうるのに、蝋人形や着色彫像などの「過剰に似ている」像はどうして不気味に思えるのか。ずっと疑問に思っていたのだけれど、最近「不気味の谷」という概念があることを知った。
ウィキペディアの「不気味の谷」の項

対象が実際の人間とかけ離れている場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすい。しかし、対象がある程度「人間に近く」なってくると、非人間的特徴の方が目立ってしまい観察者に「奇妙」な感覚を抱かせるのだ。
他に、ヒューマノイドが多くの不自然な外観を見せる点で病人や死体と共通するために、ロボットに対して同じような警戒感や嫌悪感を抱くことが考えられる。死体の場合、その気持ち悪さはわかりやすいが、ロボットの場合は、それがいったいなぜ気持ち悪いのか、明確な理由がわからないために、実際には死体よりも不気味に感じることもあるだろう。

この概念については、単なる疑似科学という説もあるらしいが、ロボット工学やCGの分野でそれなりに共有されているということは、誰もが抱く言語化し難い違和感を、上手く説明し得ているのだろう。

この種の「リアル過ぎる」人体表象に、ローマの街でもいくつか出会う。少なくとも現代の日本人の感覚からすると、芸術表現の外にあるように思える造形だ。
    
例えばレプブリカ駅にほど近いサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会。左はよく知られたベルニーニによる「聖テレジアの法悦」。この教会内部には小礼拝堂が3つあって、この「襞とバロック」の代表作はそのうちの一つに祀られている。中央と右の写真は、別の小礼拝堂に飾られていたもの。通俗的な甘美さの着色マリア像には、なんと電気の点る後光が付けられている。(マリア像の横から白いコードが出て、壁のコンセントに繋がっているのだ。)ガラスケースに入れられた豪勢な衣装の人形は、宝珠を持つ幼子キリストだろうか。これも、日本人の感覚からすると、神聖な聖像表現というよりも、一昔前の応接間のピアノの上に置かれていそうな飾り物に思えてしまう。
この「電気で後光がリアルに光る」というアイディアは、残るもう一つの小礼拝堂の大理石彫刻にも使用されている。

かつて黄金やステンドグラス越しの「光」で表現されていたものを、手っ取り早く近代的技術で代用してしまおうということだろうか。巨匠による名作で知られる教会の割には、「キッチュ」な聖像表現が多くて、それが妙に印象に残った。
聖母マリア像がもたらした戦争の勝利を記念したこの教会では、入口の扉上に鉄製の鎧が飾られている。この手の鎧も、人形と並んである種の不気味さを醸し出す「人間もどき」の代表格だろう。リアルな人間らしさとその欠落ーー兜の下から覗く空白ーーとの共存から、「不気味さ」が出来するのだろうか。)
  
右は別の教会にあった着色着衣の聖母子像。左はナヴォナ広場にある聖像店L'arte sacraに飾られていた、アンティークの人形。おそらく聖母マリアの少女時代を再現しているのではないだろうか。聖像と言っても、この店が扱っているのはもっぱら「プレセルピオ」と呼ばれるものだ。クリスマスにミニチュアを用いてキリスト降誕や東方三博士・牧童たちの礼拝の場面を再現するもので、一種のドールハウスとも言えるだろう。どちらの写真も、レベルの差はあるが聖性の表現というよりはむしろキッチュなものに見えてしまう。
    
不気味の谷」に話を戻して、ローマで見掛けた蝋人形たち。左はコロンナ絵画館(生憎8月は閉館だった)の傍、コロンナ宮別館の片隅にある蝋人形館の入口。チャップリンとカプチン僧が客引きをしている。中央はサン・ピエトロ寺院、右はサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーレ教会にあった、死せる聖者を象った人形。サン・ピエトロのものはいつの時代かの教皇で、埋葬から数十年後に掘り出しても死体が朽ちていなかったという奇蹟を記念したものなのだとか(と、側にいたガイドが話していたのを盗み聞き)。右の女性像もおそらく同じような理由によるものだろう。(ちなみに、この死体が腐らなかったというパターンはキリスト教の聖者伝ではお馴染みのものらしい。今回は足を運べなかったが、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に祀られている殉教聖女チェチリアなども、同じ伝説の持ち主である。)

ヴィンケルマンが「高貴な単純と静謐な気品」と讃えた古典古代の彫像も、実は着色が施されていたというのは今となってはよく知られた話。ヴァティカン美術館のアウグストゥスの像の傍らには、CGでかつての着色を再現したというパネルが置かれていた。

「光」や「火」の電気による代用も、あちこちの教会で採用されているようで、行く先々で見掛けたのが電気製の蝋燭。通常お布施を払って蝋燭を買い、火を灯して祭壇に備えるところを、お布施を払ったら好きなスイッチを入れて点灯する仕組になっている。経費や資源の節約なのか、火災の危険をなくすためなのか、それとも建築物や壁画・彫像の類が煤によって劣化するのを防ぐ目的なのか、自分の行った全ての教会がこの電気製キャンドルを採用していた。

サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会の写真はこちらに。一種の看板建築になっていたり(ルネサンスバロックの教会ファサードには、ときどきある形態だけれど)、キリストの画をライトアップしていたりと、いろいろと面白い。(そう言えば、キリストやマリアについては「肖像画portrait」という表現は決して使われないのはなぜだろう。)