人形の関節についての覚書

ハンス・ベルメールと「イメージの解剖学」
ベルメールがインスピレーションを得たという、16世紀の「デューラー派」による木製球体関節人形について、Sue Taylorの『Hans Bellmer: the Anatomy of Anxiety』(MIT Press, 2000)に図版が掲載されていた。

この書によれば、(ウルズラがパリに去った1934年以後)ベルメールは友人のLotte Pritzelとともにカイザー・フリードリヒ美術館で二体の球体関節人形を見たとのこと。肝心の木製マネキンだが、図版のキャプションには「Destroyed」とある。おそらくはベルメールがこの人形を見た直後くらいに、第二次大戦で破壊されてしまったのかもしれない。


ちなみにデューラー自身も、球体関節を思わせるような「人体模型」の素描を残している。

(上図はゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社、1979年より)
そもそもその『人体均衡論』で展開される発想自体が、身体を各部分に分割した上で、その間の適切な比例関係を構築する、という発想に基づくものであった。つまり、人間の身体という一個の有機体に、分割線が刻み込まれるのである。

「人体均衡論四書」注解

「人体均衡論四書」注解


それでは、ベルメールが「球体関節」というモティーフに何を求めていたのだろうか。彼のエッセー『イマージュの解剖学』では、16世紀イタリアの医師・数学者・自然哲学者ジローラモカルダーノによる「懸垂装置」(いわゆるカルダン・ジョイント(http://www.machineservice.com/products/universal-joints/history-behind-the-universal-joint/)を応用した回転装置)についての記述に、1章分の紙幅が費やされている。ベルメールにとってこの装置は、彼自身の球体関節というアイディアと通底するものであった。
いままで私は、ベルメールの「球体関節」は身体の各部位に分断線を引き、その解体と再構築の可能性を暴き出すもの、と捉えていた。しかしベルメール自身は、おそらくはこのような性質に加えて、完全に自由かつ無限の回転運動を可能とする装置としても、球体関節を捉えていたことになる。人間の現実の身体に存する限界――逆方向には曲がらず、360度の回転は不可能な諸関節、重力の存在が帰結する垂直方向の非対称性など――は、この「回転運動を可能とする球体関節」によって解放されることとなる。


そしてこのカルダーノは、ベルメールによる「身体のアナグラム」とロンブローゾ(!)とを結びつける「ジョイント」でもある。


すこし前に、人形の構造におけるメカニックな要素である「関節」にたいする嗜好からして、私はたまたま「カルダーノの懸垂装置」なる仕掛[ルビ:からくり]の存在を知ったところだった。[…]偶然の発見がこの関節で繋がれた三つの輪の魅惑を昂揚させ、私の好奇心をしてその作者たるジロラーモ・カルダーノの生涯へ向けさせた。私はついにロンブローゾのさる著作のなかに、カルダーノの自伝的資料である『わが生涯[デ・ヴィタ・プロプリア]』の抜萃を見つけた。
(上掲書、184ページ)

なんとベルメールは、身体の各部位が相互に交換可能となる、という彼自身の発想と共通するものを、チェーザレ・ロンブローゾによるヒステリー発作の記述にも見出しているのである。この19世紀イタリアの法医学者(「犯罪者生来説」や『天才と狂気』であまりにもよく知られた)の『ヒステリーと催眠状態における諸感覚の転移』から、ベルメールは14歳の少女の症例を引く。初潮時からヒステリー発作を起こすようになったという少女は、数々の発作の後で視力を喪失し、同時に鼻の突端や左の耳朶で物を見ることができるようになり、やがて嗅覚が足の踵に転移したという。別の14歳の少女も、初潮直後の様々なヒステリー発作とともに、掌で物を見ることができるようになった。この症例報告を、ベルメールは「セックスの抑圧を眼や耳や鼻に転移せしめ」た例として――すなわち自らの「セックスと脇下のイメージの重合と融解」という「転移の遊戯」を説明する好例として――取り上げている。(上掲書、132-133ページ)


身体各部位の独立性と交換可能性を、ベルメールはしばしば言語とのアナロジーを用いて説明している。すなわち、「肉体のアルファベット」による「アナグラム」である。(このことは、18世紀フランスの建築家ルドゥが、建築物の基礎的構成単位である幾何学的形態を「建築のアルファベット」と呼んだことを連想させる。ルドゥがもたらしたのは、モダニズム建築にも繋がる純粋幾何学形態の組合せであり、他方でベルメールが帰結したのは、嗜虐趣味と破壊欲に支配された畸形的・キマイラ的身体である、という差異が存在するにせよ。)

肉体のアルファベットの全体は脳髄のなかで常時戦闘準備態勢にあり、肢部を切断したときでさえそうなのだ、と仮定することができる。とすると、以上に記述した枠のなかにある諸部分――顎、腕のつけ根、腕――には、あきらかにそのもの本来の意味と並んでアナロジーの産物を、とはつまり「抑圧」することによって有効なものとなった性感帯や脚などのイマージュを重ね合わせることができる。
(上掲書、59ページ)

…切断と分裂から誕生する以前に、彼女はいくつかの混じり合った方法から源泉を汲んでいる。その方法の一つは、数学者たちが「置換」と呼び、文献学者が「語の綴り換え[ルビ:アナグラム]」と呼んでいるものだ。正確明瞭な展望を得るにはつぎのように言えばよかろう。肉体は一つの文章[フレーズ]に、すなわちそれが現に包摂している一連の無限の綴り換え[ルビ:アナグラム]を横切って再構成されんがために、まず文字の一つ一つまで解体するようにと諸君を誘う一つの文章に比較しうるのである、と。
(上掲書、159ページ)


☆19世紀のベベたち

この写真は、ブリュの工房で一時期だけ制作されていたというボディ(制作にあまりにもコストが掛かったのであろう、『商業年鑑』や当時の広告などの資料を辿ると、その制作は1879年から1881年に限られるらしい)。「当時の画家が使う木製のマヌカンからヒントを得て」作られ、足首の関節にいたるまで、人間と同じ動きができるのだという。
この関節は、まさしく「人間と同じ動き」ができる(=逆方向に曲げたり360度回転したりはできない)、という点で、ハンス・ベルメールが球体関節に「回転運動の完全な自由」を求め、カルダン・ジョイントにその共通項を見出したのとは対照的である。
(ブリュの写真や解説は、以下のムック本から引用・要約。)

アンティーク・ドール―永遠のビスク・ドール (別冊太陽)

アンティーク・ドール―永遠のビスク・ドール (別冊太陽)

人形のarticulated jointには、大まかに分けると釘などで関節同士を繋ぐ方法と、糸やワイヤー、テンションゴムで繋ぐ方法があるのだけど、上記ムック掲載の記述だけでは、このブリュ(をはじめとする、19世紀のアーティキュレイテッド・ボディの人形たち)がどちらのタイプなのかは分からない。
テンションゴム等で各パーツを繋ぐ場合(球体関節人形はほとんどがこのタイプだと思う)、ゴムを切ってしまえば文字通りの「断片化された身体(corps morcelé)」が出来上がる(参考:http://autumnhydrangea.web.fc2.com/doll/custom/0910este/0910este-3.html)。
ペトラルカ=サド=ベルメール的想像力の具現といおうか。


ニュルンベルクの人形作り
最初に掲げた、ベルメールのアイディア・ソースにもなったというニュルンベルクの木製球体関節人形。この人形自体は、画家用のデッサンモデルとして作られたものらしい。球体を挟むことで身体部位を分節化するという考えは、デューラー『人体比例論』の「身体各部位の相互関係における適切な比例」という発想と通底するのではないだろうか。

商業都市として栄えたニュルンベルクでは、南ドイツの森林から豊富で良質の木材が供給されたため、人形制作もさかんであったという。15世紀には既に木製人形を作る工房があったことが、木版画などの資料から判明しているそうだ。
画家向けのマネキンとはまた別に、「玩具」としての人形制作・販売も行なわれていた。子供向けの簡単な木製人形はトッケンと呼ばれて人気を博したそうだ。(これは子供の手遊び用の人形が、商品として販売されるようになった最初期の事例らしい。)

写真を見ると一応関節は可動だが、同時期の画家向けデッサン人形とは異なり、球体関節は用いられていない。(制作コストの嵩むタイプの人形を、子供に玩具として与えるような発想がまだ無かったことの証左かもしれない。アリエスの『子供の誕生』ではないが、玩具としての人形が精巧かつ高価なものとなるのは19世紀後半、ちょうど「子供服」が生まれ洗練されていくのと同じくらいの時代だ。)
(上記の写真や基礎的情報は、『The あんてぃーく 特集:人形と飾り箱』読売新聞社、1990年から。)

16世紀と言えば、イタリアではペトラルカの『カンツォニエーレ』やこれに影響を受けたフィレンツォーラ、ルイジーニの「女性の美」に関するテクスト、フランスではリヨン派詩人によるブラゾン(Blason)詩において、(とりわけ女性の)身体が「個々の部分/断片の集積」として描写されるようになった時代。ちなみに18世紀人サドによる「断片化された身体」描写は、ペトラルカの影響下にあるという。これとほぼ時を同じくして、デューラーによる人体各部分の比例の理論や、その一派によるデッサン用の球体関節人形が登場するのは面白い。身体というensembleを「部分」へと分節していく眼差しの誕生である。