身体コントロールを通じた自己実現――自分磨きという幻想について

とりわけ先進国の多くの女性にとって、「自分磨き」(「自分」という中性的で抽象的な言葉を使いつつも、「自分磨き」の実質はほとんどの場合が「外見磨き」である)がなぜこれだけの強迫観念になっているのか、やっと個人的に納得のいく記述に出会った。

ジェンダー化される身体

ジェンダー化される身体

[…]一方でほかならぬフェミニズム自体が、女の身体管理へのオブセッションを強化したという可能性はないのだろうか。フェミニズムは女たちに、女もこの世界で自分の欲望に忠実に自己表現を目指してよいのだと教えた。だが女の社会進出が進んだとはいえ、現実の社会で女に開かれている自己実現の選択肢はきわめて限られている。そのとき、これまでの女の自己意識と身体との強い一体性を考えれば、多くの女たちが自分の自由になる唯一の所有物である自己の身体を思いどおりに加工することをとおして、「かけがえのない私」探しというアイデンティティ・ゲームに参加しようとしたのは、むしろ自然なことだったのではないだろうか。
(第10章 美と健康という病 365ページ。)

少なくとも近代思想としてのフェミニズムが女にも男と同様に「私」探しゲームへの参加権を要求したこと、そして女の場合に顕著なアイデンティティと身体との一体性そのものは否定しなかったこと(それどころか、前述の「政治的に正しいフェミニストたちの例が示すように、身体はフェミニズムにおいても依然として重要な自己表現の場と見なされ続けている)が、女たちに「主体的選択」に基づく身体加工の情熱に拍車をかける役割をはたしたという可能性も、考慮に入れなければならないだろう。
(同上、366-367ページ。)

ときには摂食障害買い物依存症といった病理にまで陥る、女性の「美」への固執は、むしろ「自己を常に向上させるべし」という資本主義的なオブセッションがその動因であり、その「向上」の価値基準となるのが、典型的なフェミニストであれば「男性優位的」と規定するであろう「美醜によって決定される女性間ヒエラルキー」なのではないか、というのが、私が漠然と抱いていた考えだった。
社会において「自己実現」や「自己の向上」が女性に対しても要請され、他方では女性に対してのみ強力に機能する規範が残存したとき、そのいわば活断層に生ずるのが、「コントロールされた身体」や「身体管理へのアウェアネス」といった女性にとってのオブセッションである、ということだろう。