【メモ書き】テクストの「挿絵(illustration)」と映画化(映像への翻訳あるいは「翻案」)

ギュスターヴ・フローベールは自らの小説に挿画を入れることを許さなかったという。「[フローベールは]文章以外の手段によって小説が「見える」ようになることを拒んでいた          [1]」。しかし、フローベールの『ボヴァリー夫人』はたびたび映画化される(されてしまう)。「その意志を映画は平然と踏みにじる          [2]」。ジャン・ルノワールヴィンセント・ミネリソクーロフ…… 

          [1]野崎『夢の共有』112ページ。

          [2]同上。

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

 

 

【思考の屑篭】クロソウスキーと活人画:テクスト、タブロー、映画

 

情念定型に通じる手法を二十世紀において意識的に実践したのが、ピエール・クロソフスキーであった。彼の絵画ではエロティックな主題に関わる特定のポーズが執拗に反復される。クロソフスキーは自分のデッサンを「パトスを見、かつ自分に見えるように差し出す一つの仕方」と呼んでいる。絵画とは彼にとって、画家のオブセッションを祓いかつ伝達する、「パトスの顕現パトファニー[ルビ:パトファニー]」にほかならない。そのようなものとして、クロソフスキーの妻ロベルトの似姿=類似ルサンブランス[ルビ:ルサンブランス]は、タブローからタブローへと反復され増殖する。        [1]

        [1]田中『政治の美学』35ページ。

政治の美学―権力と表象

政治の美学―権力と表象

 

 

【メモ書き】安部公房勅使河原宏:文学と映画

映画版『燃えつきた地図』(勅使河原宏監督、安部公房原作・脚本、1968年公開)では、ヌード専門のフォトスタジオに主人公たちが入った後のシーンで、室内のヌードモデルの女性たちの態様を捉えた映像が、静止画像の3連続で映し出される。このストップ・モーションのシーンはそのまま、原作小説と映画に共通するライトモティーフ「写真」に繋がっている。それはアルバムの写真(家族や夫婦の関係を映し出すポートレート)であり、窃視と接触への欲望の眼差しを体現したヌード写真であり、あるいは主人公の探偵が持ち歩く、失踪した男の肖像写真である。原作の小説では、失踪した男(作中では「彼」と呼ばれている)の写真とヌード写真のうちの一枚を、語り手の探偵がつぶさに眺める描写がある。やや長いが引用しておこう。

[…]枕元に「彼」の写真と、田代君から受取ったヌード写真のうちで、特徴はないが女の生理的表情を一番よく現している一枚を選び出し、並べて置いて、ウィスキーの小瓶を瓶ごと舐めながら、その二枚の写真の関係に、全神経を集中させてみる。

 左右の均衡がわずかに破れた、熱中型のタイプを思わせる、やや面長の男。顔の表面がざらついて見えるのは、実際の肌の凹凸よりも、色むらのせいではあるまいか。アレルギーを起こしやすい体質らしい。右眼は強く、意志的な感じだが、左眼は眼尻が下り、眼瞼にもたるみが目立ち、犬の一種を思わせる哀しげな表情。薄くて長い鼻も、やや左に彎曲している。定規でひいたような、ほとんど一直線の唇の合わせめ。上唇は薄く、神経質だが、下唇はゆたかに、穏和である。左端にちょっぴり髭の剃り残し。これまでは、もっぱら実務家肌の印象が強かったのだが、今夜は気のせいか、それにちょっぴり夢想家的な陰影が付け加えられている。なんの敵意も、抵抗も感じないが、この男が実際の姿を現わし、人間としてぼくに口をきくことがありうるなどとは、とうてい信じられないことだ。最初から、陰画紙の上の映像として生まれついて来たような、いまの状態がいちばんよく似合う顔立ち。背景には斜めに走る、ぼやけた光の線。薄日を受けて光っている建物の部分のようでもあるし、高架式の有料道路のようでもある。

 もう一枚は、床も背景も、黒一色の中に置かれた、巨大な肌色の果物のような女の腰。巨大といっても、画面いっぱいにひろがっているというだけで、その腰自体は、むしろ小柄な感じである。この形は何かを想像させる。そうだ、枇杷の実……形が狂った、うらなりの枇杷……枇杷洋梨の合の子……色は、床の敷物が純粋な黒ではないためだろう、下半分がやや緑をおびた透明な半球……下から深いくびれがまわり込み、腰椎の先端のふくらみで終わっている。くびれの中は、焦茶の色素でくっきりと色分けされ、粘膜のような湿りをおびている。上半分は、淡い朱色を微かに刷いた不透明な白……その不透明さは、たぶん産毛のせいで、白も産毛による乱反射なのかもしれない。と言うのは、強く前かがみの姿勢をとっているために、砂に埋まった古墳群のように並んでいる、背骨の突起の、ある角度から見た斜面だけが、磨ぎ出した地肌のように、焦がした麦粉の色なのだ。そして、その色が、変にぼくをこだわらせる・

 見えないほど細く柔らかな、極上品のベルベットのような産毛……心もち茶系統がまじった、きめの細かい少年のような肌……むろん、最高の技術をもってしても、現在のカラー写真が、色調を完全に再現することはありえない。     

安部公房「燃えつきた地図」(1967年)、『安部公房全集』第21巻、新潮社、1999年、281-282ページ)

 

この部分は、テクストにおける擬似的なクロースアップと言ってもよい。他方で映画版『燃えつきた地図』の対応するシーンでは、女性の臀部をアップにした写真は一瞬映し出されるのみであり、男性の顔写真はやや長く画面に映るが、小説の描写のような粘着質の持続はない。この映画の「写真的な部分」はむしろ、ヌード写真スタジオに主人公が入った直後のシーンで頻用される、ストップ・モーションにこそ存在しているであろう。

 

勅使河原の映画は、たとえば流動する水や砂のショットと人間の身体を重ねていき、単一的な主体性を崩壊させるイメージを出現させることに成功している。彼のモンタージュは、自然と人工、生物と無機物、固定的なものと流動的なもの、捕らえる者と囚われる者、観察する側と観察される側、追跡者と失踪者といった基本的な区分を解除し、日常的な意味の世界が成立している人間世界の秩序を攪乱して見せるのである。また、安部は小説に「言語のモンタージュ」とも呼ぶべき手法を取り入れており、表層的な物語を構築する語彙体系の水準で、メビウスの輪のようにひと続きに反転していく未知の現実世界をイメージさせる。   

(友田『戦後前衛映画と文学』92ページ。)

戦後前衛映画と文学: 安部公房×勅使河原宏

戦後前衛映画と文学: 安部公房×勅使河原宏