歪形するフレーム―絵画と映画の比較考察

歪形するフレーム―絵画と映画の比較考察

絵画と映画に共通する「境界」であり「パレルゴン」(この術語をボニゼールは使用していないが)でもある「フレーム」に着目し、二つの分野を比較した著。

序文
現実の粒子
ショット=タブロー
とまどうレンズ
切断された反映
デカドラージュ(Décadrage)
メタモルフォーゼ
残滓(カール・テホ・ドライヤー『ゲアトルード』)
消失(アントニオーニについて)
来るべき映画のために――訳者による解題

  • 映像vs現実

1970年代初頭フランスでの議論
1)映画という装置はイデオロギー的なもの。クァトロチェントの科学的な知覚のモデル(=一点透視図法)から直接継承され、それを基盤に構築された知覚の約定である。
2)映画という装置はイデオロギー的に中立。機械的に自然の目の知覚を再生産するものであり、カメラはそのレンズが向かう現実を取り戻すものである。
=絵画における、パノフスキー派と反パノフスキー派の議論の再生産(おそらく筆者が念頭においているのは、『〈象徴形式〉としての遠近法』。パノフスキー派が1)の立場)。
(10-11ページから要約。)
→通常の目の知覚の諸条件、われわれの視覚が理解するような空間を再生産することは、空間に潜在的な主観性を記載すること(反例:レントゲンや心電図といった「客観的な映像」は、一般の人々にとって空間的現実感を形成するものではない)。この主観性のために、映画内に構築される「現実感のある空間」は、だまし絵や狡猾な技術などの「潜在的な罠」を形成する。