欲望の対象としての身体描写と「断片化された身体」

☆16世紀:ペトラルカ『カンツォニエーレ』およびルネサンスの美人論

裸性 (イタリア現代思想)

裸性 (イタリア現代思想)

『カンツォニエーレ』の文体の特徴としてよく指摘されるのが、その解剖学的性格である。詩人の歌のなかで、ラウラにはすでに死が与えられているため、その肉体は正しく解剖の対象なのである。ペトラルカは死した身体の各部位を、金属、宝石、象牙や果物などのメタファーによって表現し、愛の対象を言葉のメスによってばらばらに寸断する。[…]その[=ペトラルカの修辞法をパロディ化するポルノグラフィーの]極端な帰結が、ラウラをその祖先にいただく(と本人が信じていた)サド侯爵の諸作品である。女性の「全身像」が存在せず、ただ解剖学的な諸断片としてしか肉体が表象されないという点において、サドと『カンツォニエーレ』の文体の間には明白な共通点がある。「全体としての肉体は言語機能の到達できないところにあり、ただ肉体の断片だけがエクリチュールにまで到達する」というバルトの言葉[『サド、フーリエロヨラ』173ページ]は、そのままペトラルカ主義にもとづく詩作品にかんしても当てはまる。
(上掲書、栗原俊秀による訳者解題「アガンベンにおけるエロティックなもの」、200-202ページ)

ルネサンスの美人論

ルネサンスの美人論

アーニョロ・フィレンツォーラ『女性の美についての対話』(1548年)
…完全無欠の女性に要求されるあらゆる要素が、ただ一人の女性のなかに見いだされることは、稀であるどころか、かつてあったためしがありません。それゆえ、あなた方四人のなかから、それぞれの要素を取り出してくることにしましょう。ゼウクシスのひそみに倣って。この画家は、クロトン人のために美しい女神ヘレネーを描く必要に迫られたとき、その町の優雅な娘たちのなかから五人を選び出し、その一人一人からいちばん美しい部分を抜き出すというやり方で、ヘレネーを形造っていったのです。
(上掲書、20ページ)

フェデリコ・ルイジーニ『美しき女性の書』(1554年)
それゆえわれわれはこう決断したのです。いかなる反論も許さず、一点の染みもないほどにこの上なく美しい女性を描こうとするならば、先に言及した画家のひそみに倣うに如くはないと。[…]この画家ゼウクシスは、まず自分の目の前で、その町のすべての乙女を裸にして、その中からたった五人の娘だけを選び出しました。そうして、自然が一人一人に与えたいちばん美しい部分を取り出し、それを使って、いとも完璧で他に並ぶもののない女神の肖像を造り上げたのです。
(上掲書、21-22ページ)


ちなみにこの『ルネサンスの美人論』では、58-72ページまで、フィレンツォーラとルイジーニのそれぞれの書における、女性の身体各部分の規範的美についての描写が引用・訳出されており、「解剖学的眼差し」の具体的なあり方を知ることができる。


☆17世紀の身体各部分の描写マニュアル
オドアルド・フィアレッティ『人体のあらゆる部分や手足を描くための真の方法と順序』(1608年、ヴェネツィア):眼についての記述から始めて、身体各部分につき詳細な分析を行なう。

(上図はゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社、1979年、231ページより)


☆17世紀の性愛文学

娘たちの学校

娘たちの学校

17世紀のフランス性愛文学を代表するのが、この『娘たちの学校(École des filles)』だ。作中では、経験豊富な女性スザンヌが、母親による貞操教育を信じ込んでいる若い処女ファンションに、快楽の妙味と具体的な性的技巧を対話形式によって教育する、という体裁が採られている。ファンションはスザンヌの教えを実践しつつ修練を積み、次第にlibertineとして錬磨されてゆくのである。以下は「教師」役を務めるスザンヌが、女性が備えるべき肉体美について語った場面である。彼女はまず顔貌について語り、次に望ましい性行(外面ではなく内面に対する規範)を述べた後で、その「下半身」へと描写の視点を移してゆく。

…娘が衣裳を脱いで裸になったとき…男性にとって、快楽の美しい領域として、あからさまに姿を現し、裸身を見つめる者の眼差しや感覚を打ってほしいの。裸体に付属するあらゆる優雅さのなかでも、とりわけ福よかで丸味を帯びた腹部は、ちょうど一切の愛欲が砕け散る魅惑的な暗礁に似て発達していてもらいたい。お腹の辺りは柔らかで肉づきがよくあってほしいの。足は小さくて愛くるしく、外側に向いていてちょうどいい具合に配置されている。脛の部分は中央でふくらみ、膝は短く細やか、腿は上にいくにしたがって太くなり、肉が充溢し、その果てに固い弾力のあるふたなりのお尻がふくらみ、大理石の彫像のように左右に分かれている。尾骶骨の辺りは短く、お尻のひろがりは中庸の大きさ、胴は腰の辺りで細くくびれ、当の腰そのものは女陰を動かすために強靭かつしなやか。のみならず、ふくらみ気味でしまりのいい小丘は栗色の毛に蔽われ、その毛ときたら、おへその下6ドワのところで裂けた小さな穴に対して垣か城壁の役目を果たしている。身体全体から溢れるような美しさをもっていてほしい。肌は触れる手の下で張りをもち、つやを放って滑らか、足が氷の上を滑るにも劣らぬすべっこさをもち、殿方の手を身体のいたるところ、大理石の柱の間もしなやかに滑らせ、どこにも邪魔な毛が生えてなく、次から次へとさっと流れるように移ろわせなければいけない。唇はややまくれ、太腿の間の外部にくらべると少し濃いめの赤色を帯び、その内側は穴の奥までつづく柔らかい襞で畳みこまれていて欲しい。
(上掲書、168-169ページ)


18世紀のサドを先取りする(というより、むしろ16世紀のペトラルカの系譜に連なる)かのように、ここでは欲望の対象としての身体は断片化されている。しかし、個々の部分がアドホックを取り上げ、全体像が提示されないままのペトラルカや、性的欲望の即物的な場としての「乳房、尻、男根、肛門、玉門」ばかりを切り出すサドに対して、『娘たちの学校』の部分描写には滑らかな連続性があり、最終的な目的地である「膣」へと向って下降していくという、方向性・目的性も具備している。何より、身体の各部分が備えるべき外見的美を説く途中で、スザンヌは規範的な内面や振る舞いにも言及する。サドに比べて全体的に「通俗的」な感のある『娘たちの学校』だが、部分対象としての身体という点においても、サドほど冷酷な徹底ぶりを見せてはいないのである。


☆18世紀:サド
ラカンによるあまりにも有名なフレーズを引くなら、「寸断された身体(le corps morcelé)」という観念を如実に体現するのがサドである。彼の小説においてリベルタンたちの欲望充足の対象となるのは、総体としての身体ではなく、部分的な器官である。「サドにおいては、享楽の接近に際して隣人の身体は分断される 」とラカンは言う。この『セミネール』中の一節を、秋吉良人は次のようにパラフレーズしている。

サド―切断と衝突の哲学 (哲学の現代を読む)

サド―切断と衝突の哲学 (哲学の現代を読む)

そこでは身体は、あたかも食用の家畜をただフィレ、ロース、肩などの区分するのとまったく同じやりかたで、いつも同じように区分けされています。[…]そして、そのような分節の網目にそっていわばあらかじめ切取線を書き込まれたかのような身体は、その諸部分を享楽され、あるいは虐待された後、しばしばじっさいにこの線にそって切り込まれてしまいます。[…]リベルタンが、こうした身体部位だけでなく、より微細な諸「部分」に執着することもたしかです。しかし、それはあくまでもばらばらとなった文字通りの「部分」でしかありません。
(上掲書、140-141ページ。)


サドにおいて、主体としての身体は一種の永久機関であるが――例えば『ソドムの百二十日』に登場する、絶え間なく勃起し、疲れも衰えも知らずに同じ間隔を置いて射精を繰り返すブランジ公爵――、客体としての身体は対照的に、もっぱら全体性を欠いた部分対象として加虐者の前に立ち現れる。サド自身、しばしば「身体の各部分」という語彙を用いているほどだ。美しい乙女の身体を描写する際にも、あるいは享楽の道具である男根を説明する際にも、ひたすら「部分」のみを切り取る視線が貫かれている。

ウージェニーについては、その姿の描写にどれほど努めても無駄に終わるでしょう。[…]その髪は栗色で、せいぜい掌に収まりそうな量、長さはお尻の下まで伸びている。顔色は眩しいほどの白皙で、鼻は鷲鼻気味、眼は黒檀のように黒く熱っぽい。[…]もし貴方が、あの眼を取り巻く美しい眉を、眼を縁飾る蠱惑的な瞼を目にしたなら。口はとても小さく、歯は素晴らしく、すべてが瑞々しい。彼女の美の一つは、その美しい頭部が肩へと繋がる線の優雅さにあります。[…]それから、至上に美しい二つの小さな乳房…
Sade, Philosophie dans la boudoir, Œuvres III,p. 10-11.)

ウージェニー、お前が目にしているこのヴィナスの王杖は、性愛の快楽の主役です。これは特別に身体部分/男根(membre)と呼ばれています。人間の身体のどの一部分であっても(une seule partie du corps humain)、これが入り込めないところはないのです。
Ibid., p. 17-18.)


リラダン未来のイヴ

未来のイヴ (創元ライブラリ)

未来のイヴ (創元ライブラリ)

理想の人造美女ハダリーを、エディソンがエワルド卿に示しつつ説明する場面では、まさしくペトラルカ=サド的な「部分対象」への「解剖学的眼差し」が採られている。すなわち、まず「ヘロデヤの燃ゆるがごとき丈長髪」が、次いで「白百合の肌の色」が、そして「薔薇の花」に喩えられる唇、「蛾眉」、情熱的な恋がもたらす「眼の隈」と「頬の翳り」、「顳顬の可憐な静脈」、「小鼻の薔薇色」、「美しく小粒な歯並み」、「繻子の艶」や「真珠母の色」と形容される首筋、みずみずしい肉をもつ両肩と腕、白大理石に喩えられる喉、古代神話のニンフたちの暗喩で語られる乳房や腰、バレリーナのように踊る脚、ダイヤモンドの輝きを持つという手足の爪に至るまでが、過剰なほどの詩的修飾語を用いつつ描写されるのだ(上掲書、250-253ページ)。この部分は、サド『閨房哲学』で、ドルマンセがサン・タンジュ夫人の裸体の各部分を、若き処女ウージェニー(この性的授業leçonが施されるべき生徒)に順に示しつつ説明していく場面と相似を為している。


フランス革命期の「幻視の建築家」たちと「部分対象」
・クロード=ニコラ・ルドゥの場合

ブザンソンの劇場への一瞥」『建築論』1804年

「オイケマ」同上。


・ジャン=ジャック・ルクーの場合


部分への関心(c.f. 解剖学、建築図における比例や細部描写)




ファリックなものへの執着 c.f. ルドゥの「オイケマ」




開口部へのオブセッションとチューブとしての建築内部空間