メディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点から

メディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点から

ここしばらく、「男装女子」の系譜と欲望について考えていて、その参考になるものが転がっていないかと手に取った一冊。
著者は1972年生まれの団塊Jr.世代。「男女の平等」が社会的にある程度は実現された結果、(とりわけ職業世界においては)女性も男性と同様の強度な抑圧の下に置かれることとなり、他方で従来的なフェミニズムが規範とする女性のライフコースを実現できるのは、少なくとも現在の日本では「エリート層の女性」に限られていること――「フェミニズムは強者の論理」であって、ともすれば、エリートにはなれない大多数の女性たちを(解放や救済するのではなく)むしろ糾弾する方向に働きかねないこと――に疑問を抱いていた「氷河期世代」の私としては、「はじめに」で著者が語っている問題意識に共感する部分が多かった。構成は以下の通り。

はじめに
第1章 今日の女性たちとジェンダーをめぐる問題
メディア文化とジェンダー/ターニング・ポイントとしての1990年代/第三波フェミニズムの登場/ジェンダー――フェミニズム理論における認識論的転回/ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』
第2章 メディア文化とジェンダーを研究するためのアプローチ
フェミニストカルチュラル・スタディーズ/第三波フェミニズムとポピュラー文化/メディア文化における実践の力学
第3章 メディア表象とジェンダー構築のメカニズム
メディア表象とジェンダー構築主義ジェンダー観の特質/「メディアのなかの女性像」とジェンダーポリティクス/アクティブ・オーディエンス論における「メディアと女性」/メディア消費過程における「女性」
第4章 「主婦」向け情報番組が仕掛ける――沈黙は饒舌に包囲される
主婦のイメージ/実態論的な主婦から規範的構築物としての「主婦」へ/主婦の純化装置としての情報番組/情報番組が仕掛ける罠
第5章 メディアスポーツとジェンダー――ジェンダー化される身体とミクロポリティカルなスポーツ空間
「身体」を表象するオリンピック・セレモニー/メディアスポーツを支える「身体」パフォーマンス/身体は不動の基盤か/パフォーマティヴなものとしてのセレモニー
第6章 スポーツ観戦をめぐる性差のポリティクス――女性たちの文化実践とまなざし
〈女性〉がスポーツを語る位置/〈女性化された/女性的なファン〉の実践様式/〈女性化された/女性的なファン〉を見るまなざし/スポーツをめぐるまなざしの政治学
第7章 オルタナティヴな空間を生みだすポピュラー文化――コスプレにおける文化消費と文化生産を例として
どのような文化実践であるのか?/クリエイティヴな空間としてのコスプレ文化/商業主義、DIY精神、クリエイティヴィティ/文化消費から文化生産へ――ウェブ使用の意味/文化生産者としての女性たち
あとがき

以下は、私が個人的に興味を持っている、若年層女性の「少女願望」(いわゆる「ガーリー」であることへの志向)と「少年願望(より正確に言うならば中性的な美少年願望)」について、分析の補助線になりそうな部分の抜き書き。

[…]「少女」や「ガーリー」といった概念への気づきは、じつは、日本のポピュラー文化や評論文化においては、すでに第二波フェミニズム隆盛の時代にもうっすらとではあるが浸透していた。日本社会に特徴的な少女マンガの流行しかり、数々の「少女論」の出版しかり。たとえば、ソフィア・コッポラは、映画『マリー・アントワネット』(2006)において、ティーンエイジャーでガーリーな感覚の共有者としてのアントワネットという解釈を提示しているが、それよりはるか以前に、日本では少女マンガ『ベルサイユのばら』によって、ガーリーなアイコンとしてのアントワネットという解釈が提起されていた。そのほかにも、「少女」や「少女性(girlhood)」を中心に据えたマンガが多数生産されていたのに加え、とくに人文学の領域では数々のフェミニズムの議論と並走するように、「少女論」がさかんに論じられていった。
とまれ、「少女」というカテゴリーは、第二波フェミニズムが見落としてきた重要な概念であるとされ、1990年代以降、英語圏ではにわかに脚光を浴びるようになっている。「少女性」という概念は、「女性」という第二波フェミニズムによって普遍化されてしまったカテゴリーには収まりきれない経験や欲望を語るための空間とされ、ジェニファー・アイゼンハワーが言うように、フェミニズムは新たに、「女性/少女という二項対立」に直面することとなったのである。「少女」というカテゴリーを用いることによって、「支配的なコノテーションから〈少女〉という言葉を流用し、彼女たちの革命的な精神をよりよく表象するための新しいアイデンティティを創出」していく戦略は、第二波フェミニズムの目標がある程度達成されたこんにちの社会において、それでもなお、女性たちが自分たち自身の問題について思考し、発言し、生活していくときの大切な支えになるだろう。
(60-61ページ。)

赤文字で強調した部分は重要な指摘ではあるが、しかしアイゼンハワーという英語圏ジェンダー論者による規定をそのまま援用したこの部分は、日本の「ガーリー/少女的であることへの志向」には当てはまらない部分もあるのではないだろうか。日本における「少女性」の特権的なアイコンはアリスである。つまりはインテリ中年男性の欲望のオブジェであり、ナルシシズムの鏡像であるようなファンタスムとしての少女像に、女性自身も自己投影を行うという倒錯が起きている。男性の欲望の投影対象としての、「蝶や押花や貝殻や人形のような」対象としての、シュルレアリスト風に言うならば「ファム・オブジェ」としての「少女」イメージ――川端康成の「眠れる美女」や「片腕」が如実に体現しているような――は、むしろ日本のフェミニストたちにとっては糾弾の対象だったのではないか。問いの焦点とされるべきは、若年層の女性たちが「主体的・意志的・選択的な文化実践として」、キャロル/ベルメール/澁澤/川端風の「少女人形」イメージを身に纏おうとしていることではないだろうか。

コスプレ文化を支えているのは、裁縫を中心とする「家庭科」的な技術や、化粧やファッションのセンスである。それらの諸実践は伝統的に女性的なものとされ、第二派フェミニズム[ここではラディカル・フェミニズムと同義]によって忌避されてきた技術の総合力である。[…]それら「女性的である」とされる技術を駆使して、レイヤーの多くは「男装」する。つまり、フェミニズムが批判してきた女性的な技術、家庭科的なディシプリンが要請する技を使いながら、「家庭的」で「女性的」なものから逸れていってしまうというスキャンダラスな実践がコスプレ文化には内包されている。そのほかにも、着飾る、演じる……といった、きわめて女性的なものとして意味づけられているいくつもの所作によって、レイヤーたちは多くの場合おそらく無意識なまま、「男装」してトランスヴェスタイトトランスジェンダーの方向に突き進む。「女らしくなること」を忌避するために第二派フェミニストたちが捨ててきたものや方法を再利用しながら、コスプレの現場における文化実践は行われている。にも関わらず、興味深いことに、それが女性性への抵抗的行為になってしまうことがコスプレの現場では多く見られる。
(246-247ページ。)

最近、「男の子になりたい女の子」のためのファッション誌『KERA BOKU』の第二号が刊行されて話題になったが、そこで取り上げられているのはもっぱら、「美少年キャラ」(マンガ、アニメ、ゲーム、ヴィジュアル系ミュージシャンなど)のコスプレらしい(「らしい」というのは、この雑誌はまたたくまに売り切れて現在は版元在庫ゼロの状態らしく、現物を目にする機会がないからである。このブログ<http://zubunuretiwawa.ldblog.jp/archives/5247647.html>は明快にこの雑誌の特質を言い当てているのではないかと思う)。「ホンモノ」のFtMなどではなく、あくまでもヘテロセクシュアルで自己規定も「女性」であるところの女性が行う「異性装」には、ほとんど常にこのような矛盾ないしは混淆がつきまとっているように思われる(少なくとも1980年代以降の日本に限っては)。私自身、アンドロジナスあるいはアセクシュアルな美形男性がだいぶ昔から好きだが(中学校時代、友人が学校に持って来た音楽雑誌に載っていた、赤いチュチュをまとった森岡賢に衝撃を受けた)、突き詰めて考えればそれは〈美〉という価値が体現されていないと、自己の理想像やナルシシズムを投影する対象にはなりえないからであり、その基盤にはやはり(分かりやすく「お耽美」なものが好きという個人的な嗜好性とともに)、「外見において美しくあること」が規範的に求められるジェンダーに属するから、という要素もあるのだろう。