今日は写真美術館で開催中の恵比寿映像祭「映像のフィジカル」へ。
水蒸気で曇った窓越しの光景を映すヴァルメルダム《イン・ザ・ディスタンス》、高速で切り替わるモンタージュの、残像が構図と主題によって次の映像と連動していくルーフ《すばしこい茶色の狐が…》、ちゃちな模型が映像化によって虚構の現実性を獲得する伊藤隆介《オデッサの階段》が印象に残る。以前に竹橋の国立近代美術館で見て非常に面白かったウィリアム・ケントリッジの作品も、一つ出品されていた。
それから、前沢知子の48点組連作に添えられたパネル説明文。複数のイメージが配列されるだけで、視覚経験は動画的になるという。既出の指摘ではあるが、例えばプルーストが「花咲く乙女たちのかげに」で描写する汽車の窓からの断続的な眺めの連鎖が、映画経験の先取りにも思えることなどと考え合わせると、なかなか面白い。


展示を見た後は、鈴木了二氏、中谷礼仁氏、七里圭氏、富永昌敬氏の4名によるレクチャー「物質試行:映像と建築について」を聴く。映像に映し出される「建築」について。映像に盛り込まれた「音」の物質性について。インスタレーションを満たす光や闇の質感とその再現性について。レクチャーに「サプライズ」として登場した田中純氏の投げ掛けた「物質試行53のセットが待っている《登場人物》は誰か」との問いに、鈴木氏はマルグリット・デュラスの名と、それからハンナ・アーレントが『過去と未来の間』で引用したルネ・シャールの詩を挙げた。つまり誰かの(あるいは未定の何かの)到来のために「一つ分の席を空けておく」ということ。「失くなった後に顕われるものをつくる」という言葉が示唆的であった。
終了後、鈴木氏によるインスタレーション《物質試行53:DUBHOUSE KINO》の内側に貼られたドローイングも拝見する。ジュゼッペ・テラーニのダンテウムへのオマージュでもある本作では、外部からは見えない内壁に貼られたドローイングが、その下に置かれたガラス天板のテーブル(これもテラーニのドローイングを元に制作したもの)に微かに反映するようになっている。