太陽が少しずつ回復しつつある日の午後、「ウィリアム・ケントリッジ――歩きながら歴史を考える」展(東京国立近代美術館)へ。寡聞ゆえに初めて名前を聞くアーティストだったが、この展覧会も面白かった。今年は展覧会との出会いに恵まれているかもしれない。
展示されているのは、クロッキーのコマ撮りを主体としたアニメーションと、その準備段階で描かれたドローイング、それから彼のオブセッションの対象である視覚装置(アナモルフォーズやステレオスコープ)を利用したインスタレーション
コマ毎に新しくドローイングを描くのではなく、直前の形態を消しゴムで消し、新たな形態を描き加えるのがケントリッジのやり方であるらしい。そのために人物が運動する一連のシークエンスでは、消え残った人物像が残像のように重なっていく。画面に登場する人物像の輪郭線が融解し、終には消えてしまうシーンも頻繁に登場する。後に残るのは、木炭を消しゴムで消した後の、煙か靄、あるいはアモルファスな物質を思わせるもやもやした痕跡だけ。(この「人物が消えてしまう」という現象は、ケントリッジにおいては明らかに政治的な意味合いを持つだろう。シュヴァンクマイエルなども、人物がどろどろの塊に溶けてしまうイメージを反復的に用いているけれども、そこから立ち上がる意味作用は全く異なっている。)
デッサンでも頻繁に出てくる文房具(インク吸取り器、シールプレス、旧式の仰々しい計算機など)が、アニメーションの中ではぎこちなく動き回っていて、食器が踊り出すグランヴィルの版画を思い出す。義足を付けた人物の跛行は、コンパスや三脚の動きとも共振している。三脚もケントリッジお気に入りのモチーフらしく、複数の作品に登場する。《ユビュ、真実を暴露する》という作品では、ユビュ王の身体そのものが三脚で出来ている。「紙」もしばしば登場するモチーフだ。文字やイメージが投影される支持体(メタ的スクリーン)となったり、死んだ人物像に貼り付いてその姿を消滅させたり、あるいは単純に、事務員や画家を悩ます悪戯なオブジェとして動き回ったりする。
動画とドローイングの展示の間には、視覚詐術ともいうべき器械を使った展示が。二枚の鏡を直角に合わせ、左右の壁に掛けられた同一のドローイングを立体視させるもの、古典的なアナモルフォーズケントリッジのデッサンを用いたステレオスコープなど。これらの視覚術が、視る者の移動や運動によって成立すること――その意味で、アニメーションと通底していること――を実感させてくれる。鏡を使った視覚装置でも、スクリーンへの映像投影でも、観る者の像が少し映り込んでしまうことがあって、「視ている主体としての私」に気付かされる。
ケントリッジ南アフリカ出身のアーティストで、森美術館の「アフリカ・リミックス」展でも取り上げられたそうだが、その作品にはデューラーやマネ、フランシス・ベーコンら「西洋美術」からの引用や影響が見て取れる。粗いタッチのクロッキーとぎこちないコマ撮り手法は、一見するとノスタルジックでユーモラスな印象をもたらすが、ところどころに挿入される暴力的かつ政治的な場面は、直截的かつ強烈なものだ。ある作品ではギャグとして利用されていた木炭黒塗りが、別の作品では斃れた黒人兵の身体の下から流れ出す血となる。
ケントリッジの動画作品の一部は、こちらで見ることができる。
http://www.youtube.com/user/MoMAKJapan#p/