「失われた時を求めて」風景経験のコラージュ性

失われた時を求めて 1 抄訳版 (集英社文庫)

失われた時を求めて 1 抄訳版 (集英社文庫)

けれども線路の方向が変わったので、汽車は弧を描き、朝の光景にとって代わって窓枠のなかには、とある夜の村があらわれたが、そこでは家々の屋根が月光に青く映え、共同洗濯場は夜の乳白色の真珠の帳におおわれ、空にはまだびっしりと星がちりばめられているのだった。そしてバラ色の空の帯を見失ったのを私が悲しんでいたとき、ふたたびそれが、今度はすっかり赤くなって反対側の窓のなかに認められたが、それも線路の第二の曲がり角でまた窓から消えてしまった。だから私は、一方の窓から他方の窓へとたえずかけ寄りながら、真紅で移り気なわが美しき朝の空の間歇的で対立する断片を寄せ集め、描き直し、こうして全体の眺めと、連続した一枚の画布とを手に入れようとつとめるのであった。
(上掲書、341-342ページ)

「車窓」から風景を眼差す経験が、例えばヴェネツィアの大運河を舟で進んでいくごとき、連続的に進行する(絵巻物のような?)視覚経験とは異質のものであることを示唆している。『失われた時を求めて』は、「土地(の記憶)」や「旅(の経験)」という観点から読んでも面白い。単なる旅行記ではなくて、現実の経験と記憶の中で変形された空間イメージとの双方が登場する。(そしてときにはそれが、想像上の絵画を構成する。)19世紀フランス文学の専門家なわけではないしという甘え(?)から、抄訳版しか手元に置いていないのだが、いずれ本格的に読破しておかなくては。