都市の記憶

犬の記憶 (河出文庫)

犬の記憶 (河出文庫)

人間が持っているように、街も夢や記憶を持っている。人間の記憶がさまざまな混成系であるように、街もあらゆる物質と時空が交錯する混成体である。街は、人間の持つすべての欲望と相対的な絶望をもしたたかに蚕食して生きつづけてきた。人間は大昔から、無数の夢とともにこの地上に絶えず街を作ってきたが、欲望はさらに欲望を追うことで、また無数の街を地上から失っていった。そうした人間の欲望と絶望の痕跡を、街はひたすら記憶にとどめつづけることによって、つねに新たなる夢を人間に問いかけてくる。地上のすべての街は、たとえその街がいくたび時間のかなたに風化しようと、かつての夢の記憶を確実に次代の人々に伝えていく。僕はよく、いま自分の立っている地の下に、いったい幾多の街々の記憶が層をなしているものかという、名状しがたい思いにとらわれてしまうことがある。それは太古から現在、そして未来へと流れる時空の河に架けられた橋にたたずむような途方もなさである。僕がいま、カメラを手に実際の街なかを歩くことは、かつて在った街が語りかけてくる夢の記憶に耳をかたむけつつ、来たるべき街の夢に向けて、あるささやかな実証をもくろんでいることに他ならないのだと思う。
(上掲書、116ページ。)

〈すべての記憶は、墓地の窪地を埋める沼地や、廃墟のにごった冷たい水のようだ。世界のすべての記憶は破壊を無視できるが、われわれはこの世界の記憶を断片的にしか持たない。瞬間や事件の数々だけが残るだけだ〉とマルセル・プルーストは「失われた時を求めて」のなかで書いている。僕の舞鶴の町への追憶の発端は、むろん記憶といいかえてもいいが、それはもともと僕が直接に見たものではなく、スクリーンの映像を、コピイされたイメージを垣間見たことからはじまっている。そしてそれら多くのイメージの断片を手がかりとして、僕はさらに幾重もの時間と風景をつみ重ねていく。他者の記憶から端を発した事実は、その破片を僕に植えつけることによって、経験と想像と時間との媒介によって、しだいに僕自身の現実となりかわってくる。
(上掲書、175-176ページ。)