corps morcelé(断片化した身体)

The Body in Pieces: The Fragment As a Metaphor of Modernity (The Walter Neurath Memorial Lectures, Number 26)

The Body in Pieces: The Fragment As a Metaphor of Modernity (The Walter Neurath Memorial Lectures, Number 26)

自分の関心との関係で要点と思われる箇所のメモランダム。

フュースリによる淡彩画《古代遺跡の偉大さに圧倒される芸術家》(1778-79年)においては、取り返しのつかない喪失として、失われた全体性(totality)への激しい悔恨として、消え去った完全性(wholeness)として、「近代」が描き出されている。(p.7)

芸術家は、自ら目を覆った姿で描かれている。(p.7)
触覚が、ここで問いに付されている知覚である。(p.7)
→時間による破壊を目前にしての、芸術家の「盲目性」、代補的感覚としての「触覚」

芸術家は単に圧倒されている(打ち負かされている=overwhelmed)のではなく、幸福な全体性が失われてしまったことを嘆いている(=mourn)。この幸福状態と全体性は、今や過去か未来に移送される。つまり、ノスタルジーユートピアである。(p.8)
→18世紀後半における断片性への意識の覚醒。古代回帰と未来へのプロジェクションという正反対の時制において、全体性を復元・回復する試みがなされる。

「断片」が否定的ではなく肯定的な比喩として用いられるようになったのは、フランス革命によってである。[…]革命にとって、そして革命期の芸術家たちにとって、断片は過去へのノスタルジーの象徴ではなく、そのような過去の破壊として機能している。(p.8)
→視覚や造形、認識の変換点としてのフランス革命=一つの文化の破壊
→ユベール・ロベールの描く「破壊される瞬間」の廃墟

このような「破壊のイコノグラフィー」の中心に存在したのが、ギロチンによる人間の四肢切断(dismemberment)というアーキタイプである。(p.10)
→ギロチンがもたらした、表象レベルでの人間身体の断片性(ギロチンによる斬首、革命時の紛争による腕や脚の切断を描いた絵画の例)

  
テオドール・ジェリコーが描き出す「切断された身体」
人間の身体は単に欲望の対象であるに留まらず、煩悶や苦痛、死が生起する場所でもあることを告げる。(殉教者の身体のイコノグラフィーと連続的なもの)(c.f.p.18)
身体の統一性(coherence)は完全に粉砕されている。バラバラになった断片は、画家の恣意によって再接合される。(p.19)

「近代」の経験を画定するものとしての、社会的・心理的・形而上的レベルでの「断片性」とは?
→ここでノックリンは、マルクス、そしてボードレールによる「モデルニテ」の規定を援用する。すなわち、堅牢性の喪失、流動性(「浮標する存在」)や曖昧さである。可変性や「束の間」の性質が、自覚的な近代主義絵画の重要な性質をなす。(p.24)
広義の断片性=19世紀絵画に見られる、「フレーミングによる人体切断」と「画布の切断」→この「断片性」は、近代都市において、知覚者=制作者と知覚の対象者ともに共有されていた特徴である。(p.25)
ドガ、カイユボット、モネ、マネ等の作品の例示

ゴッホセザンヌが描くトルソ(=近代の都市ではなく、画家のアトリエに置かれた古代の像)における断片性→フュースリの淡彩画に類似するが、その「断片性」が意味するものは、もはや全く異なっている(旧式なアカデミー教育の残滓でしかない)。(pp.46-47)
トルソの頭部なき身体は、「犠牲的行為」の無意識的な示唆とも読める。ゴッホにおける「断片化」は、今や彼自身の身体の上で生起する(=耳の切り落とし)。(p.49)