imagery we never come to see is blind

以下は自分自身のための覚え書きとして。

残像のなかの建築―モダニズムの“終わり”に

残像のなかの建築―モダニズムの“終わり”に

リンフェルトが扱う主題はルドゥーなどの〈革命建築家〉たちもわずかに含まれるものの、その大半は彼ら以前の、現在でもはるかにマイナーな建築家や画家、装飾家たちであり、そこに描かれた世界は何か朧気で謎めいている。それはアレゴリー的な〈ひからびた判じ絵〉なのだ。[…]リンフェルトが取り上げるのは、「建築ドローイングが原理的で決定的な表現を失い始めた」時代、すなわち建築ドローイングという形式がすでに終わりつつある〈衰退期〉である。
(上掲書、26ページ。)

建築ドローイングの規定にあたって前提となるのは、建築物の知覚はイメージの知覚とは異なるという点だ。建築はイメージではない。まなざしへの絵画的なイメージの効果によって建築を判断することはできない。建築は眺められるばかりではなく、その建物を実際に使うことを通じて、そのなかに入りこみ、歩き回ることを通してようやく把握可能なものになる。そのとき、まなざしもただ建築を〈見る〉だけでなく、人間によって形づくられたその構造を眼で追って〈検証〉している。絵画的な空間把握と建築的なそれとはまったく異なる経験であり、建築ドローイングはこの両者の中間に位置している。それはまなざしによって見つめられる対象でありながら、建築物がもつこの〈構造的・非イメージ的性格〉を伝えようとする。「建築ドローイングは臨界例(Grenzfall)であり、多くの場合、建築的表象と絵画的(つまりイメージ的)描写との両性具有である。」
(同上、26-27ページ。)

リンフェルトはアロイス・リーグルが絵画空間について提唱した対概念「客観主義的(=鑑賞者のまなざしから独立)/主観主義的(=鑑賞者と描かれた人物との眼差しが交換される)」を援用しつつ、建築ドローイングの本質はむしろ、客観主義的構成の残存――絵画においては描写のぎこちなさと見なされるもの――であることを指摘する。遠近法に関しても、その「ぎこちなさ」こそが建築ドローイングの本質である。なぜなら、それは建築物の「客観的」な構造に従って適用されるものであり、眼に映る際の自然さを追求したものではないからだ。従って、建築ドローイングとは「非イメージ的」なものであり、絵画というジャンルからの逸脱や歪曲、退行によって規定される。このような、建築ドローイングの本質を成す「客観主義的残余」は次第に消滅し、しかし完全に「イメージ的」なものになることもせず、別個の近代的図法へと移行していく。リンフェルトは、その崩壊の一歩手前の時代を扱う。

リンフェルトが指摘するこの〈客観性〉、その〈残余〉は、ベンヤミンが「不完全な寄木細工としてのアレゴリー的形成物からは、ものがこちらを凝視している」と述べるときの〈もの〉に応じている。建築ドローイングの〈想像力〉はこの〈もの〉のまわりに張り巡らされる。眼は決して〈もの〉を〈見る〉ことはできない。それはまさに建築的知覚によってのみとらえられる〈盲点〉として、まなざしを裏切り続けるからだ。
(上掲書、28ページ。)

今年の春先、フランス国立図書館でジョヴァンニ・バッティスタ・モンターノ(17世紀イタリアの建築家)による古代ローマ建築復元図を目にしたとき、まず強烈な印象を受けたのが、その描画法のawkwardnessであったことを思い出す。

タイトルにした一文は、この記事を書くときにたまたま聴いていた曲の一節なのだが、妙な「客観的偶然」を感じる。