アナクロニズム日記

  • 7月1日

日本に帰国。「帰ってきた」というよりも、パラレルワールドに落ち込んだような感覚である。樹々の緑が水蒸気で水彩画のように滲んでいる光景と、紫陽花の色の淡さに、「日本」を実感する。志賀重昂の日本風景論みたいだ。
フランスの博士課程に籍を残しつつ(つまり、フランスで博士論文を提出する資格を保持しつつ)、今後は日本で博論を形にしていく作業に没頭する所存。非常勤や研究員の仕事などが入ってくれば、またそちらでなんだかんだと忙殺されてしまうだろうから、宙ぶらりんな今がいちばんの勝負どきだと思う。
フランスで身に着けたことは何かと言えば、結局のところ自分のpositionとpossessionに対する覚悟のようなものだろうか。私はもとより、西洋美術史プロパーの人間でも、フランス語プロパーの人間でもないし、そうなるために必要な訓練も受けてこなかった。(学芸員実習をしたこともなければ、フランス語の基礎的な文法を体系的に教わったこともない。)そういう自分の経歴、そしてなにより本郷/ソルボンヌ的な美術史学に常々コンプレックスを感じていたことが、人文系の学問についてリジッドなディシプリンが構築されている国を留学先に選んだ、最大の理由だった。
ディジョンの大学で指導して頂いたポーレット・ショネ女史は、「知を面白がる」というスタンスの方で、自分のような方法論の学生も評価して下さったが、Master2時代の私の同級生たちは皆、ゴリゴリの実証主義的美術史を実践していた。美術史学Master1の論文口頭試問を聴講した際、評価基準として度々登場した単語が「catalogage et identification(目録作成と作品の作者・年代同定)」であったことは、ここで「美術史学」に求められている基準を端的に表わしているだろう。INHA(パリにある国立美術史研究所)のシンポジウムにも何度か足を運んだが、やはり基本的な趨勢はほぼ変わらないように思えた。フランスは「文化財」(と名指されるもの)の潤沢な国であり、それに対する内外からのリスペクトも確立されていて、さらにはそれが強力な外貨獲得手段にもなっている。そういった国では、高等教育を修了した次の日からconservateurやarchivisteやdocumentalisteとして実戦力になる人材が、常に一定数必要なのだろう。ただ、日本という西欧社会の「外部」、それも西洋美術史プロパーの学科ではなく表象文化論というやや「斜め」な場所にいる自分が、そういう世界に完全に同化することが求められているのかと言ったら、おそらく答えは否だろう。だから自分は、既に出来上がっているリジッドでソリッドなものの常に外部にあるような、言ってしまえばstrangeな存在でいい。私が今手掛けているルドゥー論にしても、フラットな歴史記述に回収されない(かといって、澁澤龍彦や果てまた磯崎新氏のような、過剰に対象を特権化し称揚するような論調を復興させるのでもない)アプローチがあるのではないだろうか。そういう腹の括り方というか、より品の無い言い方をすればケツの捲り方が出来たことが、留学の成果と言えば成果である。

  • 7月4日・5日

京都造形芸術大学にて、表象文化論学会。懐かしい顔ぶれに次々に再会するも、まだ自分が「目の前にある、この現実」に参画している実感がない。
「免疫・多孔性・液晶」をテーマに、人文系の学問が現在直面している状況を、それぞれの論者が述べたシンポジウムの後は、京舞の公演。動きのダイナミックさとリアリズムに驚く。この手の芸能では、振り付けはもっと抽象化されているものだという思い込みがあったので。舞台設定は飛鳥時代であるにも関わらず、衣装は江戸紫の小袖で、どう遡っても江戸時代まで、そのアナクロニズムが面白い。浪を白く染め抜いた上に、ところどころ螺鈿の貝殻が縫い付けてあって、おそらくこの演目用に特注したものなのだろう。
翌日はパネル発表。マイク、PC、仕舞いには自分の声帯までコントロールを外れてしまうという小さな事故が続く。固有名詞や術語が厄介な上に、やや細部まで入り込み過ぎた感があり、聴きにいらした方の全てに上手く主旨が伝わったか、甚だ心許ない発表になってしまった。プレゼンテーションのテクニックや、レジュメの形式を工夫するのが今後の課題である。3人の発表者の、ともすれば統一性を欠いているように見えるテーマに、コメンテーターの方が巧みに「糸」を通して下さり、また私の今後の研究にとって「核」になるようなポイントを突いて下さったので、パネル全体としては大団円となったと思う。
留学中は、まさしく言語的インファンスで、言語の限界が思考の限界であり、思考の限界が世界の限界であることを実感する状態だった。そういう日々を送る中で、気付かないうちに自分が陥っていた視野狭窄・近視眼的状況に、穴を穿ち新鮮な空気を流れ込ませることの出来た二日間だった。
隈研吾氏の設計によるという京都造形芸術大学人間館は、急な階段の上に妙に巨大なファサード(寺社建築ともギリシア神殿風ともつかない)が聳え、柱の内側には「人間」「誕生」「情念」と彫られている。(ちょうど先輩とデカルトの「情念」について話しているときだったので、大笑いになった。)建物内には平櫛田中作の金色に塗られた岡倉天心像、古代ギリシア・ローマ風の模刻、石膏製のシロクマの親子、そして巨大な流木までが点在し、食堂の窓からは葉桜とまだ新しい墓地が見え、なんとも不可思議な空間だった。写真を撮る暇が無かったのが残念。

太秦広隆寺の蓮池。色調の異なる緑の重なり合いが美しい。日本の植物は日本画に描かれている通りの形態と色彩をもっていることに、新鮮な驚きを感じる。