ゼロ地点としての廃墟

ノスタルジーやメランコリーという「意味」のべったりと付着した「廃墟」ではなくて、かといって「表象不可能」と言われるほどの暴力や破壊や死の記憶が染み付いた場所としての廃墟でもない、建築という存在が解体される、あるいはゼロへと移行していくプロセスとしての廃墟、みたいな概念が成立しうるのではないか、と考えている。
廃墟に限らず、最近よく「ゼロ」ということを考える。例えば、「アンドロジナス」であることが強烈な性的アピールを持っていたゴルチエなどと比較すると、COMME des GARÇONSのアセクシュアル性はゼロに近い(ような気がする)。

ゼロ、というのとは少し違うかもしれないが、記号学会の折に訪れた神戸ファッション美術館に、時代衣装をトワル(オフホワイトのシーチング布地)で再現した展示があった。白一色で、ただ様々な衣装の「」の部分だけを抽出したものが並んでいる様には、不思議な開放感があった。テレンス・コーのアルビノめいたパフォーマンスや(コー氏は自分の部屋も白一色で揃えているらしい)、VIKTOR&ROLFの黒一色で統一したコレクション(2001-02A/W)にも通じる開放感である。


しかし、「暗殺された都市」はロッシらしいドローイングではない。これは、廃墟と崩壊のドローイングであり、ロッシ自身が「形態と場所と歴史を持ちながらも機能を持たないオブジェクトとしての廃墟は創造に出発の足掛かりを与えてくれる」と発言しているにもかかわらず、ロッシの作品の大半を占めるドローイング、つまり「類推都市」のドローイングは廃墟をテーマにしたものではない。むしろ、それらは無化、不完全性、そして放棄を表したドローイングである。ある意味では、「類推都市」は廃墟としての都市を否定し、タフーリが意味するような建築を追放する息苦しくなるような圧力を否定しようという試みなのである。なぜなら特別な建築的伝統の一部を形成する廃墟は、歴史へのノスタルジアを持ち込むからだ。これと対象的に、不完全性には感情は伴わない。ノスタルジアは廃墟と人間を結び付けている。だが、不完全性は生を良心の慈悲から遠ざける。廃墟は歴史の連続性と現前を想定しているが、不完全性はその空虚による断絶と空虚を仄めかす。「類推都市」のドローイングにはこの中断に対する意識がある。まだ暗殺された都市ではない。そうではなくて、打ち捨てられた建築なのだ。
ピーター・アイゼンマン「死者の家、生存者の都市としての」藤原えりみ訳、『季刊都市』第I号(特集:ポスト・ポストモダン都市)、都市デザイン研究所、1989年7月、100ページ。

完成へと向かう途中の段階で打ち捨てられた建築、それが示唆する中断したまま宙づりにされる時間。宙づりとなった「壊れた建築」そのものは「ゼロの建築」ではないが、ここでの時間は過去への参照も未来への観想も持たない、いわば点的な時間となっているのではないだろうか。それもまた、厳密な「ゼロ」とは異なる気もするが。
あまりにも時事的すぎるので、2000年代にはあえて「グラウンド・ゼロ」という言葉には触らないようにしていたけれど、この辺りで一度、当時の議論や言説を整理してみたい。