ふと目に止まった催し物。

表現とデモクラシー
日時:2009年4月26日(日)19:00〜21:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(東京都中央区八丁堀3-11-9-B1)
詳細はこちら:http://ca-mp.blogspot.com/2009/04/talk-0426.html

美術品(それを「イメージ」と呼ぶか「作品」と呼ぶか、あるいは「マテリアル」という側面から捉えるかは、個々の立場次第だろう)が文化財という名の「公共財」と化す。そこにはどういう作因が働いていて、それは何を意味するのだろうか?これは留学直前期、矢代幸雄論に取り組んでいたときの最大の問いだった。結局決定的な解は見つけ出せないまま、身辺の慌ただしい時期だったこともあって、「愛の見切り発車」的に紀要論文を書き、それ以来になっていた。
「美術館」や「文化遺産」と呼ばれる場所は、様々な「命令」や「禁止」によって支配されている。(触るな、近づき過ぎるな、飲食禁止、フラッシュ禁止、撮影禁止etc)もちろんそれは、第一義的には文化財の保護というプラクティカルな目的のための措置だ。けれども、その背後には、通常は不可視でありながら強大な力が働いているのではないだろうか。そんなことを、日頃美術館巡りをしながら、なんとはなしに考えていたので、上掲リンク先のブログ記事にある次の部分は、とても示唆的だった。(もちろん、「公共財」の「公共」と、ここで言われている「公共性」とでは、意味の範囲に若干の違いがあると思うが。)

「民」は、既存の秩序を乱し、犯罪や暴力の根源とみなされ、恐れられてきた。そのため「民」は街や路上から排除され、隔離され、不可視化させられてきた存在だった。
本来、デモクラシーにとって一部分に過ぎない議会制民主主義は「わたしたち」の安全と安心を確保するという理由で、「民」を排除する制度を民意に反して、次々と量産してきた経緯がある。それはアーレントの言葉を借りれば、「わたしたち」の側にあるはずの「政治的なるもの」としての表現が、無味乾燥な「社会的なるもの」へと代置されてきた一連の流れであり、同時に芸術の表現から「民」が消えてゆく歴史でもあった。
(中略)
「わたしたち」は「民」を排除した後、そこを「公共の場」と呼ぶことに慣れてしまった。

自分がやっている研究は、おそらくは「美術史」にいちばん近いのだろうが、決定的なヒントはその「外部」からやってくることが多い。フランスに留学に来ていちばん不安と不満を感じるのは、こういう「外部」や「他者」の思考と触れ合う機会が、日本にいたときよりも圧倒的に減ってしまったこと。
もちろん、自分から積極的にいろいろな学科のセミネールやシンポジウム、学会などに顔を出せばいいのだろうが、何より情報がない。正確に言うと、自分の求める情報にどうやってアクセスすればいいのか、そのノウハウがない。つまり「情報弱者」なのだ。母国語に比べたら情報処理の速度は格段に落ちるから、その点でも「遅れ」を取りやすい。特に留学1年目は、知的刺激となるような新しい情報になかなか巡り会えず、日本にいるときよりも(輪をかけて)思考のレベルが低下してしまい、無意味に焦燥を感じていたのも事実。(留学すれば必ずステップアップできると考えている人がいるなら、それは幻想だと思う。基礎的な語学力に加えて、勘の良さや積極性、コミュニケーション能力、精神的な強靭さなどがない限り、むしろ「知の孤島」に閉ざされることにもなりかねない。)