視覚と幽霊/亡霊

ジャック・デリダ「幽霊的な記録(分光写真)[spectrographies]」(上掲書所収)より

バルトが、写真の経験のなかにそのような重みを触覚に与えて範囲を広げるときに、幽霊性〔スペクトル性〕のなかでも、映像、映画、テレビなどに向けられる視線のなかでも、わたしたちが奪われているのはまさしく触知の感覚であるからなのです。触れたいという欲望、触覚の効果や影響は、暴力的にフラストレーションにより呼び出されている、触覚の不在に取り憑かれた場のなかに、回帰する亡魂[ルビ:ルブナン]のように戻って来いと呼び促されていることになるのです。[…]幽霊とは、まず視覚的なものです。けれども、不可視の視覚的なものであり、骨と肉をもって現前することがない身体の視覚性なのです。この視覚的なものは、それが身を向ける直感に身を許すことを拒みます。触れること[傍点]のできないものなのです。
(上掲書、187ページ。)

この幽霊の論理においてずっとわたしが取り憑かれているのは、幽霊の論理が可視と不可視、感覚と無感覚のすべての対立を一定の規則で超過していることなのです。
(上掲書、188ページ。)

[映画『ゴースト・ダンス』で共演した際に]あのシーンをパスカル・オジエと一緒に発案したときに、わたしの研究室で彼女は向かいに座っていて、撮影の合間ごとに、映画用語でアイ・ライン[傍点]と呼ばれるものをわたしに教えていました。相手の眼をじっと見つめ合う目線のことです[…]何十分もの間、監督の指示に従って、わたしたちは眼をじっと見つめ合ったのですが、これはなんとも奇妙で非現実的な強度の経験です。[…]即興の終わりに、[監督の指示によって]「では、あなたはこれを信じますか、亡霊を信じますか」とパスカルにいわなければならなかったのです。[…]彼女は短く「ええ、いまは、そうね」といいました。撮影のなかで、すでに彼女は30回はこの文句を繰り返したことになります。これはすでに、いささか奇妙で、幽霊的なことでしたが、この楔がはずれた自己の外にあるようなものが、何回も到来して一回に収斂するのです。
(上掲書、190ページ。)