フェノロサと岡倉[天心]の提示した概念は、空間を時間に置き換える点で効力を発揮した。それは二つの方向に社会を再布置するものだった。それはまず、この列島にある異種混交的な形象を組織し、発展する日本の国家という物語に仕立てること、つぎに、この日本美術の物語を普遍的な枠組みのなかに位置づけることだった。岡倉とフェノロサは、人工物を布置するにあたって、ずっと絞り込んだ分類枠を同定し、それを発展する歴史という枠組みのなかへ整理し、そのうえで、これを核となる(つまり普遍的な)概念につなぎあわせた。つまり、地域色を帯びた遺構や、このほかの点で多様性をもつものが、日本という単一の空間のなかに再布置され、ナショナルな資料(データ)として手なずけられたわけだ。
(ステファン・タナカ「見いだされたもの――日本と西洋の過去としての日本美術史」東京国立文化財研究所編『語る現在、語られる過去 日本の美術史学100年』平凡社、1999年、61ページ)

『美術真説』で展開される議論の最大の論点は、「美術ト非美術トヲ区別」し、西洋では衰退してしまい日本でも顧みられなくなっている「真の美術」を救出しようとする点にある。[中略]フェノロサが一九世紀のドイツの知識人たちと共有していたものは少なくない。美術を構成する各要素の「総合」的構築性を強調する姿勢、同時代の(特に西洋の)芸術が模倣に走ることへの失望感、その失望感を古代への郷愁に転移させる点、技術を越えた精神性の強調、外面的な効果から出発するのではなく内的な「根源」へとさかのぼろうとする考え方などがそうだ。彼が、日本の美術に「ギリシア」を発見してしまったことも、当然のことのように思われる。そこには、それを発見する感性があらかじめ準備されていたと言ってもいいだろう。
(加藤哲弘「近代日本における美学と美術史学」上掲書、39−40ページ)