西洋との対話

今、矢代幸雄ボッティチェリ論の「感覚的(sensuous)ボッティチェリ」という章を読んでいる。率直に言えば、矢代は文章も下手だが、それ以前にあまり論理的・体系的な思考のできる人物ではない。だからこそ、妙な発想が抑圧されないままあちこちに残っていて、それを刈り集めるのが面白い。

中でも最大の見所は、ボッティチェリの分析から、唐突に尾形乾山やら喜多川歌麿やらとの比較に移行する部分。そもそもボッティチェリと日本の工芸や浮世絵(西洋的基準からすればlesser art)との比較の妥当性を担保する共通平面があるのかどうか、そんな検討は一切行われない。しかも、それまでは師匠やら同時代の画家たちやら、事実上の影響関係に基づく比較を行ってきているわけだから、「二つのイメージを並べて比べる」という作業のレベルが飛躍しすぎである。

他にも、花や貝殻というモティーフについて、唐突に個人的な詩的感慨を語り始めたり(ヴァレリーの『人と貝殻』を、8円コピーに10回かけてできた劣化版みたいな内容)、「科学的・理知的な模倣(=写実主義)よりも感覚的な模倣の方が高次である」という趣旨のことを言い出したり(その価値判断を支えている根拠は何だ?これに関しては先行する芸術思潮もありそうだけど。)、かなり滅茶苦茶である。言葉の選び方も、相当感覚的という印象を受ける。「霊妙な(etheral)」とか「感覚的(sensuous)」という形容についても、何らかの哲学的知識を背景にしているとは思えない使い方だし、その語が指す意味の範囲も曖昧だ。

例えばフェノロサは、正倉院御物と西方美術との形態的類似から、ギリシア文明東漸の最終地点を日本に見出しているし、同様の発想から、伊東忠太法隆寺の建築様式の祖形をギリシア神殿に求めた。最近では、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の背景に描かれた風景表現は、日本の山水画が(陶磁器というメディアによって)伝播したものだと説いた論文などもある。けれども矢代は、形態的類似関係と、歴史的な伝播・影響関係とを完全に別次元のものとして捉える。ボッティチェリ歌麿や乾山との形態的類似関係に彼が読み込むのは、自然を模倣する際の、視覚や感覚の構造における相同性なのだ。