• 日本美術史における「古代」概念の構築――フェノロサ「奈良ノ諸君ニ告グ」(1888=明治21年6月5日)

奈良の浄教寺で行なわれた演説。ここでフェノロサは、まずローマと奈良とをアナロジーで捉える。かつて美術と宗教の中心であり、そしてその衰亡の後はしばらく忘却されていたという点で、この二つの都市は類似しているというのである。ローマの古代遺物が研究されることによって、ヨーロッパの発展が促進された。奈良における「古代の開明」も同様に研究されるべきである、とフェノロサは説く。さらには、ローマがヨーロッパの規範となったように、奈良もアジアの規範となれるはずだと言うのである。
演説の後半では、アレクサンダー大王の遠征によりギリシア美術がインドに至り、さらに東漸して日本に至ったとする、いわゆる「ギリシア文明東漸説」が展開される。ここで注目したいのは、ギリシアはもちろん中央アジアにおいても滅亡してしまった文明の嗣子が、唯一日本にのみ、それも純粋かつ完全な形で存続している、という思考形式だ。フェノロサは、既に消滅してしまった自らの起源へのノスタルジーを、遠く離れた極東の地である日本に投影していたとも言えるのではないだろうか。
以下は、山口静一編『フェノロサ美術論集』(中央公論美術出版、1988年)に収められた「奈良ノ諸君ニ告グ」からの抜粋である。

抑々美術ト宗教トニ関シ、奈良ハ羅馬ト何ゾ其事ノ相似タルヤ。(154頁)
此時間奈良ノ古物ガ世ニ知ラレザリシ有様ハ、恰モ羅馬ノ古物ガ土中ニ埋モレ居タルノ時ト一般ナリ。(155頁)
羅馬已ニ欧州ノ規範トナレリ。奈良独リ亜細亜ノ規範トナル能ハザルノ理アランヤ。(157頁)

顧フニ日本開明ノ遠因即チ文明東漸ノ原因ハ希臘ノ歴山[アレキサンダー]帝ガ東征シテ文明ノ種子ヲ印度ニ遺シタルニ起リ、夫ヨリ支那高麗ヲ経テ日本ニ伝ヘタル証迹ハ歴々トシテ徴スルニ足ル。古代日本人ノ美術思想ノ純粋ハ全ク希臘美術ノ純粋ト同一轍ナリシコトハ、之ヲ今日ニ存在セル銅像彫刻ノ精妙ニ徴シテ照々見ルベシ。[中略]亜細亜仏像的美術ハ此奈良ニ於テ完全セリト云フモ決シテ溢言ニ非ザルヲ信ズルナリ。[中略]其ノ故ハ中央亜細亜ノ諸国、遠キペルシアノ如キヨリ、文明ノ種子ヲ持来シ此奈良ノ装飾ヲナシタリ。然ルニ当時文明ノ種子ヲ持来シタル此諸国ハ今日如何ノ有様ナルヤト云フニ、多クハ亡滅シテ存セズ、或ハ今日ニ探究ノ縁ナク、或ハ戦乱革命ヲ経テ旧時ノ面目ヲ存セズ。当時ノ事物ハ独リ日本ニノミ存在セリ。[中略]実ニ奈良ハ中央亜細亜ノ博物館ト称シテ不可ナキモノナルベシ。(156頁)

  • 日本美術史における「古代」概念の構築――フェノロサ「東洋美術史綱(Epochs of Chinese and Japanese Art)」(1912年)

森東吾訳『東洋美術史綱 上巻』(東京美術、1978年)より、フェノロサギリシア文明東漸説と循環史観の現れ出た部分。

われわれは、いまや、中国美術に与えた影響の第四波、いわゆるギリシア仏教美術に論及しなければならない。この第四波は久しく西アジアに集結し、短期間のうちに中国をすばやく横切り、日本の海岸に至って砕け、やがて消えていくが、その経過は相当な年月に亘っている。(143頁)

時間的尺度を示す直線のうえに、ヨーロッパ美術の盛衰を示すグラフ曲線を描いてみると、波頭の鋭く尖った二つの大きな波濤がうねっているが、その二つの尖端は、実にニ〇〇〇年という巨大な谷間によって隔てられている。かくも長い間、ヨーロッパ人の偉大な精神が美術を蝕む病弊と衰退に苦しんでいたことを知って、われわれの誇りはいたく傷つけられるのである。ヨーロッパとアジアの、疲れ果てて回復する望みのない古典美術の衰退は、実に一〇〇〇年以上に及んでいる。しかし、同じ時間的尺度のうえに中国と日本の美術隆替のグラフ曲線を挿入してみると、この両国の美術が七世紀に遠隔の古典美術の影響を受けて隆昌期を迎えるのは、ヨーロッパ美術の沈滞期にあたっていることが、よくわかるのである。特にキリスト教美術ともいうべきゴシック美術が西方におけるギリシア美術の廃墟から立ちあがったのは、仏教美術が東方におけるギリシア美術の廃墟から立ちあがった時期に比べれば、はるか後世のことに属する。だが、この東西における美術の発展過程が多くの並行的類似の特徴を示していたとしても、別に驚くほどのことはないであろう。(144−145頁)

これに続けてフェノロサは、地理的隣接関係と美術品の形態的類似により、ギリシア文明が西域、インドを経て中国に至ったことを問いている。