岡倉天心(日本美術史講義におけるギリシア文明東漸説)や伊東忠太法隆寺エンタシス説)の「ギリシア幻想」を追っていて面白いのは、むしろ「ギリシア的なもの」の幻視がさかんになった明治20年代を過ぎてからの彼らの進路である。天心は、インド訪問の際に彼の国のナショナリズムに触れたことを契機に、東アジア美術へのギリシアの影響を否定し、アジアの固有性・自律性を説く方向へと転向する。一方で忠太は、グリフォン狛犬が混淆したような建築意匠をはじめ、キマイラ的なシンボルに満ちた建築を創り出していく。敢えて明治20年代的アナロジーを使ってしまうと、エジプト、ローマ、エトルリア、さらにはキルヒャーやフィッシャー・フォン・エルラッハ調のオリエンタルな意匠の混淆へと滑走していった晩年のピラネージと、よく似ている気がする。

ナイーヴなフェノロサや生真面目な天心に比べて、忠太はある意味いい加減で、そんないい加減さを自分でも気に入っていたんじゃないかと思う。

明治期のギリシア(そしてローマ)幻想と言うテーマは、実は藤島武二の唐=天平=朝鮮幻想の話から思いついたものなのだけれど、書いているうちに藤島の居場所がなくなってきて困った。