プラート美術の至宝」展(損保ジャパン東郷青児美術館)と「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第4部 混沌」展(東京都写真美術館)に足を運ぶ。

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プラートはフィレンツェ近郊の小都市。フラ・フィリッポ・リッピを中心に、14世紀から18世紀までの美術作品を展示したもの。パネル説明が非常に充実している。とりわけ聖人たちの集団を描いた作品に対しては、複製図版まで駆使してイコノグラフィー的説明がなされている。

足を踏み入れてすぐのところに展示されているのが、『ピエタキリスト像』である。結婚や終油に際しての「接吻牌」として用いられたものだという。この比較的小さな板絵を見て考えさせられたのが、イメージへの「接触」というテーマだ。かつて聞いた話では、スペインにあるキリストの木彫の着衣聖像は、その足元に口付けをする信者が絶えないために、その部分だけ黒ずんでしまっているのだそうだ。ここでイメージという言葉を使うのは、不適切かもしれない。眼差しではなく接触の対象となるとき、それはむしろ「物質」――それも「素材」に還元されえないフェティッシュ――としての性質を現すであろう。

礼拝対象としての「像」に触れるという行為には、ある程度の文化的普遍性があるのかもしれない。(例えば日本の民間信仰でも、病気平癒を願って像の特定の身体部位を撫でるという慣習がある。)しかしながら、キリスト教において「接触/非接触」というテーマが特権的であることを考えるならば、イコンや聖像というイマーゴに対して「触れる」という営為からは、何か特別な意味作用を抽出できるようにも思えるのだ。

例えば、マグダラのマリアは自らの髪の毛でキリストの足に触れる。一方で復活後のキリストがマッダレーナに放った言葉は、「我に触れるな」だ。ヘモリッサも、キリストの足に触れることで恒常的な血漏から回復する。疑い深い聖トマスは、復活したキリストの脇腹の傷に指を触れてその実在を確かめるようとする。そもそも聖像じたいが、接触という契機から生成したものだ。キリストの顔が転写されたというヴェロニカのハンカチーフであり、またエデッサのマンディリオンである。磔刑後のキリストの身体を覆った聖骸布も、聖なる身体との物理的接触の痕跡である。血の染みた聖骸布とは多少モードが異なるけれども、聖母マリアが被昇天の際に聖トマスに授けたという帯――その実物とされるものが、プラートに聖遺物として保存されている――もまた、聖なる身体と接触していた事物という性質を帯びている。

他にも印象に残った作品をいくつか。
・フィリッポ・リッピとその工房『聖母子』:絵画内空間の中にトロンプ・ルイユ的にニッチ(壁龕)を描く慣行は、ルネサンス期によく見られるが、この板絵はその描かれた壁龕の縁(アーチや柱)が、そのままイメージの空間と観者のいる現実空間との境目になっているのだ。言い換えれば、描かれた空間と現実空間との連続性を断ち切る明確な枠・額縁が存在していない。展示室の壁面にニッチが穿たれ、そこに聖母子像が浮かんでいるかのような錯覚に陥ってしまう。(三次元的、迫真的なニッチに比べ、人物像は平面的で「描かれたもの」だとすぐに分かる。)今回の展示作品とは異なるが、類似構図の作品

・オラツィオ・フィダーニ『聖フィリッポ・ネーリの幻視』:前景の人物と上空に現れたヴィジョン、そして後景に小さく描かれたプラート大聖堂広場の景観という三者の、空間的な関係が全く把握できない奇妙な構図。窓や扉の外に風景や都市景観を描く手法はしばしば目にするが、この作品では聖人の座る床が途中で断ち切られ、その向こうが突然遠景と思しき小ささで描かれた都市光景になっているのである。カタログの解説では、「風変わりで凝った『フォトモンタージュ』」と称されている。プラートの実景の上にグイド・レーニによる図像を「ほぼ忠実に繰り返した(カタログ)」この作品は、確かに想像的な意味でのフォトモンタージュと呼びうるかもしれない。

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写真美術館の展示は、「混沌」という(分類と命名の責任を放棄したかのような)サブタイトルが示す通り、展示作品の選択もその分節化も恣意的で散漫な印象。もっとも、ほぼ自館収蔵作品のみで展示を構成しなければならないのだから、「写真の現在」を俯瞰できるような構成にならないのも仕方がないのかもしれない。こちらも印象的な作品をいくつか。

・ドゥエイン・マイケルズ『写真ではみえないけれどここに存在するもの(There are things not seen in this picture)」:無人のバーを写したモノクロームの写真の余白に手書きの文字で、写真には写り込んでいないが撮影当時そこに存在していた諸事物(フレーム外の光景や撮影者であるマイケルズの知覚)が書き込まれている。ここでは、写真というメディアが捨象してしまうものの存在が浮き彫りにされる。しかしそれ以上に目を引くのは、語りの時制として過去形が用いられていることであろう。(My shirt was wet / the beer tasted good / I was still thirsty…)それは、写真撮影時における「現在」において、フィルムにイメージが焼き付けられたその瞬間において語られたものではないのだ。現像とプリントが完了した後に、事後的に語られた「同時性」なのである。撮影の時制と、撮影者が当時を回顧しつつ語る時制が、そこには混在している。

・ニコラス・ニクソン『ブラウン姉妹』、『クレマンタインケンブリッジ』:「家族写真」であるにも関わらず、親密な間柄の対象にカメラを向けたとは思われない、奇妙な異化効果のある作品。カメラ(その向こうの撮影者)と被写体とが向き合うというデュアルな構造によって撮影される人物写真は、その二者の関係性をダイレクトに映し出してしまいがちであるがゆえに、第三者にどこか気恥ずかしさを抱かせるものであったり(例えば個人サイトに載せられた家族スナップや、年賀状に貼り付けられた子供や結婚式の写真)、どこか居心地の悪い濃密さを湛えていたり(例えば荒木経惟長島有里枝の人物写真)する。しかしニクソンの写真からは、このような関係性が捨象されているように見えるのだ。

・ティエリー・ウルバン『バビロンの展開 西のテラス』:何故か心惹かれた作品。初めて見るはずなのに、不思議な既視感がある。