Barcelona
5日間のバルセロナ旅行で写した写真をuploadしました。
http://f.hatena.ne.jp/baby-alone/BCNArchitectures/
バルセロナの建築と街並。ゴシックからモダニズム、名のあるアーキテクトの作品から平凡な家並まで。
http://f.hatena.ne.jp/baby-alone/faces/
http://f.hatena.ne.jp/baby%2dalone/faces/?page=2
「顔」シリーズに追加。
http://f.hatena.ne.jp/baby-alone/inscription/
「絵の中の文字」シリーズに8枚を追加。
http://f.hatena.ne.jp/baby-alone/ninfa/
バルセロナの街で出会ったニンファたちを5枚追加。
http://f.hatena.ne.jp/baby-alone/le%20mort/
新シリーズ。横たわる死者としての彫像。上の5枚はバルセロナのカテドラルで。下の3枚はローマにて。
展覧会や美術館の感想などは、また追々。
カタルーニャ国立美術館の写真展示室にあって、印象に残った作品を一枚だけ。
Enric Folgosa Martiの「Funerala Kosovo」。1998.10.5の『Dragobil』紙に掲載されたものだという。フォトジャーナリズムの文脈の写真だけれど、西洋美術史の中で反復されてきた「キリストの死への哀悼」という主題(例えばニッコロ・デッラルカの彫像群)を連想させる。中央に横たわる細面の美青年と、激しい身振りで悲嘆に暮れる周囲の女性たち。(写真家自身も、この絵画史的伝統を意識していたのだろうか?カトリック国であるスペインで、この写真はLametoのテーマを直ちに想起させるものなのだろうか?)青年はくっきりとピントが合っているのに対し、泣き喚く女性たちは輪郭線がぶれていて、不動と動のコントラストが明確になっている。写真というメディアは(絵画とも映画とも違って)、ムーヴメントの感覚を「ぶれ」によって表現できるのだということに気付く。コソヴォ紛争での個人の死、という重く不可逆な出来事を写した作品を、西洋美術史の文脈に回収して論じてしまうことが、政治的・倫理的に妥当なのかは分からないけれど。逆に言えば、キリスト教絵画の約定が、現代の報道写真をも――死という決定的な瞬間を切り取るに及んでも――支配しているということだろうか。(上掲の写真は、こちらのサイトから。)