講義用メモ:ジョーカーにみる権力、暴力、「悪」の描き方:トッド・フィリップス監督『ジョーカー』2019年

バットマンとジョーカー:元々は1940年代から連載開始されたアメリカン・コミックスバットマン』で悪役(バットマンの敵役)として登場。その後、媒体や年代ごとにキャラクター設定は様々に変化。ジョーカーは「サイコパス(冷酷非情な純粋悪)」として造形されることも多い(アメリカ映画における「悪」の一つの類型)

Cf.アメコミ『バットマン』のストーリー自体が、幼少期のトラウマをめぐる(ベタにフロイト的な)復讐と倒錯した自己克服の物語(コウモリにトラウマがあり、両親の殺害とも結びつく記憶のモティーフだからこそ、コウモリの格好をする)。バットマンとジョーカーの鏡像関係も示唆?

 ・『ジョーカー』2019年:『バットマン』の前日譚(バットマンとなるブルース・ウェインの少年時代、悪役ジョーカー誕生の由来を描く)・アンダークラスの社会的弱者(精神疾患を患う「インセル」男性、定職・定収入もなく病気の母親と二人暮らし)としてアーサー/ジョーカーを描く

・悪は「強大な敵」として描かれない、「悪の崇高化」もなされていない(ジョーカー以前のアーサーは、今日のインターネットジャーゴンでいう「弱者男性」である)

・しばしば指摘されるように、製作当時のアメリカ合衆国や先進国の情勢(格差社会と社会階層の分断、アンダークラスの怒りなど)も反映された作品(ただし当時の米国=トランプ政権下では、アンダークラス白人はむしろポピュリズム政治に迎合的?)

・作中では、巨悪や強大な権力そのものに対する抵抗というよりも、「小金持ちに対する反感」(地下鉄内で女性をからかいジョーカーに射殺される)が民衆暴動のきっかけとなっている

・本作での「悪」(社会構造が生み出す相対的な「悪」?)は、新自由主義社会の勝者である富裕層・権力者層(ウェイン家)や小金持ちの「陽キャ」(地下鉄で女性をからかう若者たち)の側として描かれ、本来「悪役(ヴィラン)」のジョーカーはむしろ下層市民の共闘者、もしくは同情すべき善良な弱者として描かれている

・ジョーカーはアンチヒーロー、ダークヒーローの系譜ではあるが、 「人間味のある弱者」や「周縁化された存在」として描かれている

・文学的・芸術的な「狂気」のイメージの系譜(崇高で創造的なもの)ではなく、現実的で卑小な「精神疾患」として、ジョーカーとその母の狂気をとらえている(崇高な狂気から、病理としての精神疾患へ?)

・社会から見捨てられた母親と息子の対関係、「強い父親」としてのトーマス・ウェイン(彼が実父というのは、実はアーサーの母親の妄想)に拒絶される

・小金持ちに対するアンダークラスの怒りの爆発。デモ隊の仮面は「特権的なヴィラン」であるはずのジョーカーと同一化してしまう(これによりジョーカー/アーサーは刑事の追跡を逃れる)

→ジョーカーのクラウン・メイクは、「異形性の強調」から「市民との連帯・団結の象徴」へ?

・仮面/メイキャップ:ジョーカーの風貌にまつわる由来は、シリーズや作品によって異なる。2019年の『ジョーカー』では、コメディアンに憧れるアーサーの職業的な仮面であると同時に、権力による抑圧に怒りを爆発させる市民たちとの連帯の象徴ともなっている(「#アーサーは私だ」的なもの)

・ジョーカー/アーサーとメイキャップ/素顔の対応、自らが演ずる「ジョーカー」になるプロセス

・アーサーは結局は救済されず(「仲間たち」が出来るわけではない)、孤独に狂っていくことが示唆されるエンディング→「後日譚」としての「バットマンのジョーカー」へ