オブジェの思考:瀧口修造、夢の漂流物

私の部屋にあるものは蒐集品ではない。
その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃りをも含めて。石ころとサージンの空罐とインドのテラコッタ、朽ちた葉、ミショーの水彩、あるいは「月の伝説」と命名されたデュシャンからの小包の抜け殻、サイン入りのブルトンの肖像、ムナーリの灰皿、マッチの棒、宏明という商標のある錐……etc., etc. そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。
それらはオブジェであり、言葉でもある。永遠に綴じられず、丁づけされない本。
瀧口修造「白紙の周辺」、『コレクション瀧口修造4』みすず書房、1993年、137ページ。初出:『みづゑ』のフォトインタビューに寄せた記事、1963年。)

私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは一種の記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。
それらは市場価値の有無にかかわらず、それには無関心な独自の価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。
[…]
しかし近づいてよく見ると、そこには世間公認のカテゴリーから外れたような物たちの一群のあることに気づく。
玩具の定義は? それはともかく、「芸術」であるにしろ、「商品」であるにしろ、常識や習慣の決めた品物以外の変なものがしばしば「おとなの玩具」と呼ばれているのだ。
[…]
流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え、あるいはライプニッツ流に、これも「変な考え」のひとつであろうか?
瀧口修造「物々控」、『コレクション瀧口修造4』みすず書房、1993年、197-203ページ。)

さらに海岸におりて私は貝殻を拾う。それらがまた急に変貌して、オブジェ狂ダリの顔が二重うつしになる。――しかしはるばる持ち帰ってみれば、ただの破片にすぎない。すくなくとも魔法の破片だ。半分は現実で、半分は非現実の……。
瀧口修造「魔法の破片」、『コレクション瀧口修造9』みすず書房、1992年、316-317ページ。初出:『いけばな草月』1959年。)