カタストロフィによって破壊される都市と「崇高」の美学

すでに18世紀初頭、イギリスの文筆家ジョゼフ・アディソンは、地震津波により倒壊したナポリ古代ローマ遺跡の情景に、「古代の栄光の廃墟と、混沌の中にある偉大な壮麗さ*1」を――つまり持続的な時間経過によって出来した遺跡と同様の価値を――見出していた。エドマンド・バークもまた『崇高と美の起原』(1757年、つまりリスボン地震の2年後の刊行)で、「もし地震によってロンドンが全壊したなら」という仮定を持ち出している。

崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)

崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)

例えばイギリスの、否、ヨーロッパ全体の誇りであるこの気高い都ロンドンが大火か地震で破壊される姿を見たいと思うほどに奇妙な奸悪な気持ちの持ち主は(彼自身はこの危難から考えうる限り遠く離れているという条件のもとでも)恐らくあるまいと私は信ずる。しかしもしも一旦このような致命的な災害が現実に起ってしまったと仮定しよう。その場合にどれほど多くの人間が四方八方からこの廃墟を見ようと集ってくるであろうか! そしてその中には今までのロンドンの晴れ姿をついぞ見なかったことを内心で満足に思う者がどれだけ多いことか! (上掲書、53ページ)


そうではなくて我々が非常に鋭い苦を感じたり自分の生命の危険が切迫したりしていない限りにおいて、我々は自分で苦を嘗める間にも他人の身の上を感じやることができるのであって、自分が苦悩に押しひしがれている時こそむしろ強く他人を思いやる結果、我々は災難を見て憐愍をさえ感じそれを自分の身に引受けようと思うのである。(上掲書、54ページ)

*1:Joseph Addison, Remarks on Several Parts of Italy…, 1705, in The Works of Joseph Addison : Complete in Three Volumes, Embracing the Whole of the “Spectator,” &c, Vol.,3, New York: Harper and Brothers, 1837, p. 344.