瀧口修造にとっての、絵と文字の接近・融合(シュルレアリスム、オートマティックに書く/描くこと)

書くこと、描くこと、この二つのことの区別がまたわからなくなってきた。古代や原始に遡ると、文字も絵に近くなってしまうので、描くこととそれほど区別がなくなる。現に古代の金石文などに、今日の画家ミロやクレエのデッサンと似通うものがある。
 しかし書くことは、東洋では書道として独特の発達をとげた。西洋のカリグラフィーという言葉がそれに当るが、書道とは違っている。[…]ところが西洋の近代絵画から、書のようなものが現れてきた。


瀧口修造アブストラクト・エージ」、『芸術新潮』第3巻第5号、1952年。
巌谷國士瀧口修造とデカルコマニー」、『太陽』第382号(特集:瀧口修造のミクロコスモス)、1993年、25-26ページより再引用。)

*『芸術新潮』の該当ページを確認すること。
巌谷國士はこの引用部の後、瀧口の主張の要点を「ミロやクレーのほうこそが実在と記号や表象とのあいだの距離をちぢめ、そこに生命をよみがえらせている」とまとめている(巌谷、上掲論文、26ページ)。

[1958年の5ヶ月に渡るヨーロッパ旅行からの]帰国後、しだいにジャーナリスティックな執筆活動に支障をおぼえはじめ、あらためてそのことが、書くことと描くことを合致させようとする欲求につながる。1960年における「自動デッサン」への衝動は、このようにして必然的におとずれたものにほかならない。かつてのランボー使徒はふたたび、「書く手」への疑念にとらわれていた。1962年のデカルコマニーのこころみののちに、注文原稿を書くことができなくなり、北杜夫医師の診療をうけたりしたという事実は、二十代のころの、熱にうかされていた「自動記述」の日々を思いおこさせる。『自筆年譜』の翌1963年の頃には、彼の晩年の活動を予告するつぎのような境地が回顧されている。
「この頃から新聞雑誌の評論をつとめて避けるようになり、むしろ偶々個人に贈る言葉、または稀れに書く個展への序文のような断章が結果として意外な比重を占めることになる。職業としての書くという労働に深い矛盾を感じる。」
 瀧口修造のデカルコマニーが、こうした状況のもとに、むしろそれに支えられて制作されたことを忘れてはならない。それらは「職業として書くこと」のかわりに描かれ=書かれるばかりでなく、「個人的に贈る言葉」をともなって、あるいはそうした言葉そのものとして、友人たちに宛てられることが多くなっていった。


巌谷國士瀧口修造とデカルコマニー」、『太陽』第382号(特集:瀧口修造のミクロコスモス)、1993年、26-27ページ。