眼と視覚、あるいは盲目性

恵比寿のLa librairie 6(シス書店)で開催中の「アンドレ・ブルトン 没後50年記念」展(http://librairie6.exblog.jp/23304674/)で買い求めた書籍のうちの一つ、塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』から、バタイユと眼(盲目の眼)についての抜き書き。

 もっと正確にいえば、この物語は「眼の変奏としての」(バルト)白くて丸いobjetsの物語になっているわけだが、それらは、眼球でない場合には、眼球を想起させるモノ、たとえば、猫のミルク皿、玉子、闘牛の睾丸などで、いずれも「白くて丸い」という点では眼球に似ているが、「見る」ための器官としての眼球をかたどっているとはいえない。なぜなら、そこには「瞳」がないのだ。こうした白い球体は、むしろ剔出されて、もはや見ることから切り離された眼球を思わせる。それらが眼球そのものである場合でも、「白くて丸い」モノは「見る」機能をすでに失っている。それらは――
●首をつって死んだマルセルの大きく見開かれた眼球
●闘牛に右目を突かれて死んだグラネロの、眼窩からとびだした眼球
●首をしめられて死んだドン・アミナドのくりぬかれた眼球
●「私」の盲目の父の放尿中の白い眼球
 などであり、最後のそれをのぞけば、すべて死体の眼球で、「父」のそれも、もはや何も見てはいない。
(上掲書、275-276ページ)

眼球譚』における「見ること」のテーマは、あきらかに光の源泉である「太陽」の問題に結びついている[…]
(上掲書、277ページ)